覚者慈音1636   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1636
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十二      完全なる魂と不完全なる魂   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・29


 世人の中には旅の恥はかきずてなど称して、礼を失し居ることを我等は苦々しく思ふなり。身を整へざる不行儀の醜態をなして、平然たるは何事ぞ。己の心の汚れたるを露骨に現はして、我は無慈悲なりと現はし居ることに心附かざるや。肉体整ふるは心にあり。心整ふは魂にあるなり。自我心は肉体の育て主なり。育て主が肉体を傷け居りて、其にて修養は得られざる事に思ひ至らば、旅の恥はかきずてなど称して、無法の振舞などなし得らるるものにあらず。己の至らざるを憚らざるが故に、斯くも見苦しき振舞をなすにてはあらざるか。行ずる者のなさざる処、是不完全なる魂に化せしめ居る、哀れなる人なりと憐まざるべからず。甚だしきに至っては彼もかかる事をなすならば、我もなさんと是を真似る如き人は多し。是等は動物性の人間にして人にあらざるが故に、我等は一層憫なりと思ふものなり。朝に床をはなれ夕に臥す迄肉体を大切に育てて、然して全き稔りを得せしむるにあらざれば、正しき拝みとはならずして又正しき法には合はざるが故に、完全なる稔りとはならざるならんとは考へざるか。道を歩みて石につまづかば、其石を地上に敲きつけて苦々しき顔をなして通りすぐる人を、我等は見る時、何と云ふ愚なることをするものかなと、是又憫に思ふなり。我、躓ずば痛し。他人も亦痛からんとの心あらばかかる事はなさざるべし。世人の日々の生活はすべてかくの如し。故に肉体の拝みと魂の拝みは、個々別々と化せられて行くなり。世人の中には宗教者の教への誤ちより俗に云ふ御幣をかつぐ人は多し。例へば死人の処に悔みして我家に帰れば、塩をまきて家に入る如きことをなし居るを我等は見る。是は指導者の誤ちたる教へよりかかる事をなすならん。死人の処より帰り来らば何故薬剤を用い消毒をなさざるや。此意味をはきちがへて塩にてきよめんとなすにては、全き消毒とはならざるべし。塩にて清むるも其は消毒とはならざるなり。唯一時の気休めにすぎざるならん。世人の御幣は多くの場合かかる事より出でたる事きはめて多し。「晨(あした)に道を聞かば夕に死すとも可なり」と云ふ教訓を世人は如何に考ふるや。小さき教へと云ふとも心魂に徹すれば此教へは尊し。此教へに化せられて、心魂一体の姿とならば、夕に死すとも何ぞ怨む処あらん  !
其にて望みは達せられ使命は全うせられたる故なり。談話を聞きて其中より一つの言葉が、汝の心魂に徹するならば、雑談の中の一句たりとておろそかに聞き得らるるものにあらず。所謂百言一言に不如との感は起る筈なり。拝みするもの此心してすべてに耳を傾け、又百聞一見に不如の教へに対して、是に眼を向け居らば何かは知らず心魂に及ぶ事もあらん。故に拝みするもの油断なく何事に対しても、眼をむけ耳を傾けて是に接し居らば、身心魂の三味一体となりて遂には正しき稔りは得らるるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する