覚者慈音1637   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1637
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十二      完全なる魂と不完全なる魂   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・29


 肉体は如何に清むるとも清浄とはならざるなり。故に是を汚体と云ふ。世人は汚体には心を用いて清浄化せんとなし居るのみにて、心魂の浄化は余り重きを置かざる傾きあり。或人は云ふ、心清きが故に肉体も清むるなりと。其は一見理の如く思はるれど、我等の眼より見る時は然にてはあらざるべし。世人の考へは表面をつくろひて他に美はしく見せんと計るにて、所謂内部の汚れをかくさんがための偽言に過ぎざるならん。肉体の垢はぬぐへどもぬぐへども取り去ることは難し。故に顔面には紅粉を装ひ美服を纏ひて、外部にのみ心を用い居るにてはあらざるか。内部の心を常に洗濯なして是を清め、然して外部に及ぶ底の洗濯ならざれば、内外一体のきよめはなし難かるべし。顔に紅粉を装ひ、肉体に美服を飾らんとなすが故に、却て心を傷くる事多からん。肉体の表面は一時的の美は作る法を知れど、心の美を作る法は知らざるべし。心魂を清むる法は即ち拝みより他にはなかるべし。肉体を水にて清むる如く、心魂も拝みによって清めざれば、清浄とはならざるなり。相対性世界は清濁の区あるに依て、是を浄化せんとせば濁を払はざるべからず。清きものは汚れ易し。一度汚れに染まば容易に清むることは難し。故に間断なく拝みして汚れを払ふにあらざれば光はにぶし。斯る事は誰もが知る処なれど是を間断なく行ひ居る人は少なからん。世人の如く相対性世界に生を受けたる以上、常に浄化をはかり居らざれば汚れは益々度を加へて、果は棄てらるる他なかるべし。故に相対性世界を早く度脱して絶対性世界に入らんことを願ふべし。絶対世界には清濁の区別はあらざる故なり。今慈音は我に問て曰く、「神は人を罪せずと仰せられしに不拘、死刑などの罰をあたへ給ふは如何なる故ぞ。死刑は罰せられたるにてはあらざるか」との質問なり。我、是に答ふべし。
 神は是を罰したるにあらず。汚れ多くして再び用ゆる事あたはざるが故に、其肉体を捨てたるにて、其魂を罰したるにあらず。故に是は殺害の罰にてはあらざるなり。世人は一見是を殺害の罪の如く思ふならんも事実は然らず。さればこそ是等は魂と肉体を分離して魂を他に移して、新らしき任務をなさしめんが為にはからはれたる慈悲にて、罪罰の罰にてはあらざるなり。所謂彼の犯したる罪の汚れを浄化なし給ひしに他ならずと知らば可なり。

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