覚者慈音1625   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1625
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第六十      自我魂へ通ずる道とは如何   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・27


 又迷ひも消滅して明らかとなるは是又理なるべし。己より智慧のすぐれたるものとは、即ち汝の何処かに潜在なし居る魂なるが故に、魂は自我心の汝に答へをあたふるなり。世人は信仰を得んとして道理を聞かされて、唯然あるかとのみ考へて其を如何にせば可ならんかと思ひ惑ふは、是空なるものを空によって処理せんとなすが故に、空より空へと思ひ惑ふが故に、右往左往するのみにて何ものをも把握することを得ず。徒らに光陰を空しくなし居ることは、己に架せられたる魂のはたらきを知らずして、外にのみ心を馳せ居るに依て斯る迷ひは生ずるなり。汝が家には大なるはたらきをなす宝を有しながら、外に出でて何かの宝を求め居ると云ふに他ならず。我家にかへりて其宝を箱より取り出して用ゆれば、其にて何事をも明らむることを得るなれば、その心して拝みをなし法を行はば可ならん。迷ふことあらば考慮すべし。深き慮(おもんぱかり)あれば過誤は少なしと云ふ教へもあるならん。深き慮とは自問に合ひ又拝みに合ふ。故に回答ありて願望ははたさるることも此理によって知ることを得るならん。考慮して解し難きは、己の魂の未だ雛鳥なるが故か、或は魂に迄道は開らかれ居らざる故なり。思ひを深くして魂に通ずれば、必らずや解決は得られること疑ひなし。故に拝みをゆるがせになすべからず。自問自答をたえずくり返へすは、即ち拝みに他ならずと知るべし。迷ひを晴さんがために道を聞くなり。道を開きて其に対して答へのなきは、その質問に対しての回答者が未だ其道を知らず。故に其回答者は更に他のものに是をたづぬるは、是又自問より自問へと順次智慧のすぐれたるものへ、運びを歩み居るが故なり。自我心より自我魂へ、自我魂より霊へと、次第に深く変ずるによって、最後に質問を解決せられて、其が次第に霊より魂、魂より心へと自答は得らるるなり。此理も自づと察することを得るならん。是等は自力の拝みの法なり。されば智慧なきものは、外に智慧ある人を訪ねて、是に従ひて道を聞き己が迷ひを晴らす。是自力に似て自力にあらず。他より受くる智慧なるが故に是を他力と云ふなり。自他の区別は一言すれば先づかくの如し。故に自他は一如なり。

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