覚者慈音1624   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述


覚者慈音1624
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第六十      自我魂へ通ずる道とは如何   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・26


 例へば汝の枕神にたちたりと云ふことに対して、世人は如何に考ふるや。世人の枕神と称するものは、多くの場合眠り居て始めて見る現象ならん。此理を考へしことはなからん。眠ると云ふは肉体と自我心とが休み居るを考へよ。肉体が自我心と一体化なし居るによって、魂は現はれて自我心に何かを告げたるならん。覚醒時何かの思ひを抱き居る時、決して現はるるものにはあらざるべし。めざめ居て雑念に耽り居りても忽然として目前に現はれしと云ふことはなかるべし。もしかかる事のありとせば其は病的の人なるべし。或一部の神経が休み居て其部分が空虚となるによって斯る現象は起る故なり。例へば肉体疲労して道を歩みをなし居る如きにあたって、目前に幻影を見ることあるは、これ過労と云ふ病症の現はれにして、其は一時の幻影にすぎざるなり。是は枕神とは異なる現象なり。重病人が死期迫るに至って脱魂すること多し。是等は枕神の立ちたるにあらねど、所謂魂のみ自由にはたらくと知らば可ならん。自我心と肉体と完全に一体となり居る時、現はるる魂は即ち正しき教へを与ふるものなり。故に修養修行のつみたる人に現はるる魂は、眠らずとも現はれて、すべて自我心をさとし居ることに至らしむる迄、魂に通ずる道を開らかずば望みは達し難し。
 魂に通ずる道を開らくには如何なる法を以てするか。所謂空路(くうろ)なるが故に空(くう)を以てなさざれば法はなり難し。されば法とは如何なるものか。是を一言にて説明するならば、即ち考慮を廻らすにあらざれば空路は開らけ難し。
 禅門にては公案工夫と云ひて、考への及ばざることを考へて、未知なるものを既知に化せしむる法を用い居れり。是即ち魂に通ずる空路を開らき居る法に合ふなり。世人に示めされし自問自答とは、即ち空路開拓の法を教へられたる事に、世人は未だ気附き居らざるべし。法をむづかしく考へて特殊の術ある如く思ふが故に迷ふなり。考ふると云ふことは即ち自問にして、その考へが解決せられたる時はじめて自答は得られたるなり。故に考ふるは自問にして、解決は自答なること心づかば、自問自答の法は推知することを得ると共に、自我心と魂との通路は開らかれて、ここに始めて往来することを得るなり。物事を考ふるは発信にして、回答を得るは受信なり。恰も電信電話の其の如く、先方にたづねて彼より答へを得ると同様の事と知らば、従って法はむづかしきことにあらずして、なせば誰にもなし得ることも従って判明するならん。空なることは空によって解決せざるべからず。その空なるが故に、如何にすれば可ならんかと彼是迷ひを起し居るならん。深く物事を考ふるは即ち自問自答に相当すると同時に、その深き考へこそは即ち拝みに合ふことも推して知るべし。迷ふことは問ふべし。問ふことは即ち拝みなり。然して己より智慧のすぐれたるものより答へを求むれば、其にて疑ひは晴るるならん。

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