覚者慈音1623   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1623
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第六十      自我魂へ通ずる道とは如何   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・26


 我、円海の格式にて五月十四日(昭和二十四年)こだま会に於て語りたる如く、世人の全部が悉く魂を有し、その魂を自我魂と称して、その自我魂が世人の枕辺にたつと説きたり。世人は是を曲解なし居るにてはあらざるかと思ふなり。誰の枕神にもたつ時は、其を己が有する魂とは悟らずして、天界より神の使ひが現はるる如く考ふる人は多からん。人死して神となるものならば、我も神なりと貴尊方に於てすらかく語られ居るにてはあらざるか。自我心尽きて自我魂に同化せられて、始めて自我心の役目は終りたりと云ふことは先にも語りし如く、所謂人間の人間たる道を終りたる時、初めて自我魂は新らしきはたらきをなす。この事柄より推理する時、自我魂は自我心より一段すぐれたるはたらきをなす故人間よりは尊し。この自我魂が世人の枕べに立つを見て、是を真の神の如く思ふも無理ならぬことなれど、其は神にあらずして汝に与へられ居る汝の魂なりと心附かば我にかかる尊きものを与ㇸ給ひ居るかとの思ひは、軈て有難しとか尊しとか云ふ心に変ず。その心に変じたるものは即ち自我心なることは云ふ迄もなし。昨日迄拝み一つなさざりし自我心は、今日よりは拝みするものに変化なしたる時、自我心は忽ち拝みするものに変ぜられて、ここに初めて仏凡一体の姿となる。故に自我心の煩悩は消滅なしたることも、推して知ることを得るならん。是人間より仏になりたる姿なるべし。世人は初対面の人に対して礼を以て是にあたる。礼とは即ち拝みなるべし。我より礼を厚ぅせば彼も亦是に順ず。この理より察する時神に礼せば、神も礼を以て是にあたり給ふは是又理なるべし。相互が礼を厚ぅして交はりを結ばば争ひは生ずるものにあらず。常に平和なるべし。法とは拝みなるべし。信も亦拝みなるべし。礼を厚ぅする毎に相互の交はりは深くなる。衣食足りて礼節を知ると云ふ譬喩あり。さりながら此比喩には衣食足らざれば、礼節を知らずと云ふ表裏の関係とならん。衣食足りて礼節を知るは、一方の礼なり。衣食足らずして、礼節を知らざるも亦一方的なるべし。然りとせば何れにくみせば可ならんかとの迷ひは生ずるならん。斯る迷ひをなし居る間は信にも合はず、法に合はざるが故に、是等は通ぜざるなり。
 現今世人の用い居る法律はすべて一方的なるが故に、表裏の関係あるによって、正しき約束とはならざるなり。世人の現在用い居る法律なるものを、我等の眼より見る時、一方に理あれば一方に理なき事多きが故に、是には何れをも正しと見ることを得ざるなり。所謂人間同志の約束はかくの如く不自然なること多し。さればこそ種々様々の党を作りて、彼是論議を交へて決せざること多からん。我に理ありて彼にも理あることならば、其は正しき自然の法則に合ふならん。然るに我に益なく彼に利ありと見る時は、彼に対して反抗し、彼に利なくとも我に利ありと見る時同意する如きは、是一方に偏するが故に自然の法則とはならざるなり。人間性の約束は大概かくの如き定めなるが故に平和は保たれず、常に争ひは絶えざるなり。自我心と肉体と同化すれば、是又一方的となり、自我心と魂とを一体化せしむれば、是又一方的となる故に、自我心にも利益をあたへ肉体にも利益を与ふることによりて、此両者が魂に対して従はば、即ち平和は保たれて、軈ては身心一如となり、更にその一如となりたる身心と魂とが、ここにはじめて一体となりて、仏凡一体の姿に変ず。即ち肉体ありての自我心、自我心ありての肉体、是等両者が結合して、はじめて人間性は保たるるにて、其人間性が更に進んで魂と一体となるにあらざれば、正しき成仏は得られざることも推して知ることを得るならん。

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