覚者慈音1618   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1618
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十九      接続根と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・25


 この接続魂の表裏の廻転を余りに激しく行ふによって、即ち摩擦根となるなり。心意と云ふは即ち心の廻転の表裏を云ふなり。魂魄と云ふは魂の廻転の表裏を云ふにて、所謂日月の其の如しと考ふる時、月を心意と見なすか、或は是を地球として考ふる時、昼夜は心の廻転なるによって、心を昼とせば意は夜の関係となる。然して太陽を魂として考ふれば、自づと心意魂魄の理は、明らかに推知することを得ると思はば可なり。世人はよく潜在意識と云ふ言葉を用い居るが、この潜在意識こそ魂に相当すると思はば、すべては解決するならん。例へば世人は何か神仏に対して、真剣なる思ひにて合掌低頭して居る姿を見る時、その姿の神々しさは誰もがよく知るところならん。是は接続魂自我心を圧さへて、魂を表面に現はしたる故なり。是を潜在意識とか、或は良心とか称へ居るものにて誰にも此良心に相当する魂は保持なし居ると知らば、従って心魂の両者の関係は明らかに知ることを得たるならん。この潜在意識とか良心とか称するものは、即ち仏ともなり又神の卵ともなるなり。是を孵化せしめて雛鳥に生れしむれば、其にて人道は完全に歩みをなしつつあることに着目せば、従って修養の法は学ばずとも悟る処あらん。仏教にては是を往生と云ひ、或は見性成仏とも称へ居るなり。我、斯く語らば世人は又も疑ひを生ずるならん。そは他ならず、接続魂自我心は何故尊きかとの質問をなすならん。是を具体的に説明せば、仏教書或は神道に於て称へ居る、すべての仏或は八百万の神など称へ居る点より考へ見よ。八百万の神とは、即ち自我心の個々に宿されたる神の姿に変じたるを示めし、多くの仏も亦同様と知らば、其神々の有するはたらき或は仏の有するはたらきが悉く相違ある如く、人の使命もみな其々に変りたる姿にて変化なすと悟らば、自我心の如何に尊きかを知ること得るならん。自我心は肉体より魂に通ずる中間性のはたらきにて、其使命を全うして魂に同化するが故に、天分は果たさるる結果となることに思ひを致さば、即ち唯我独尊の結果となるなり。此理も推して知ることを得るならん。されど世人には未だ解し難き点多々あることは、我等百も承知の上なり。自我心と魂とは一体の関係あるによって、従って天分を全うしたるものと、全うせざるものとの区別はここにあるなり。魂によって自我心を化すると、自我心によって魂を化するとの相違あることにも、又留意せざるべからず。

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