覚者慈音1617   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1617
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十九      接続根と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・25


 その法が正しく用いらるれば成功し、然らずば不成功に終ること是又推して知るところならん。故に苦しむも迷ひより生ずる法の現はれにて、楽むも同様の関係あることも推してうなずく処あるならん。苦楽は即ち自らの心がけ一つなるべし。その心がけの可否は何によってなさるるか。即ち己自らが有する心なることに着眼せよ。我等心意魂魄霊と区分して語り来りたるため、世人は是に惑はされて、兎やある角やあると思ひ煩ひ居ることを我等はよく知る。されど是等を一言にて世人に知らしむることは易けれど、余りに簡単に説明せば、却て修養修行をおろそかにして、正しき信念を得ること難きを知るによって、今日迄かくは説き来りしなり。即ち接続魂自我心と云ふに他ならず。汝等個々に有する心を云ふなり。百人百種と云ふは即ち汝等の心が、顔形と同様にすべて異なる心を有し居ることより考へ見よ。即ち汝等の心は接続根にすぎざるなり。文字にても判明する如く自らの心と認めて、息と名づけ居るにてはあらざるか。自らの心、即ち息とは、自我心を指したる仮定して考へなば、生きると云ふは即ち息なるべし。息即ち自らの心なり。我、文字の意味を彼是論ずるにてはあらず。唯表面に現はれたる姿を一見しても判明するにてはあらざるかとの意味にて、かくこじつけに似たる説を弄したるにすぎずと思ふべし。こだま会に於て、我、円海として語りし時、世人は猫をかぶると云ひしことに対して何と解釈なせしか。自我心接続魂は常に地球の其如く廻転なし居るによって或は表、或は裏と自由自在に廻転するは接続魂の特徴なり。世人は初対面の人に対しては表面を現はさず、廻転して裏を示めし居るが故に、表裏異なりたる現はしたかを常になし居ることに心つかざるや。自ら悪き行為をなし居ても、他人には是を見せじとて善行を面にむくるにてはあらざるか。是即ち猫をかぶると云ふなり。善行を表面に現はせば裏には悪行のあるが故に、是を内部より見るものは誰ぞ。即ち汝の何処かに潜在なし所謂良心と称する魂の眼が是を眺め居るにてはあらざるか。斯く語らば心と魂の関係は明らかに認識することを得たるならんと思ふが如何 !

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