覚者慈音1616   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1616
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十九      接続根と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・24


 世人は自我心は大切なりと聞かされて誤解なし居るが故に、自我心さへ強からしむれば、其にて修養修行の道は開らかれて体得することを得と考ふるが故に、ここに道をふみ外すこと多からん。即ち我意を強くすれば、其にて、人間の本分は全うせらるると考ふれば、其は大なるあやまちなり。我情我慾我見は、傍芽(ぼうが)をたたせて、大切なる根も幹も枯死させる結果となることに意を払はざれば、空しき動物性にて終る。慎むべきことなり。我儘気儘の振舞は慎まざるべからず。我儘我慾我見は、即ち我儘気儘にて是は傍芽を多くするのみにて、何等の役にもたたざるなり。肉体と魂を更に霊にのみ囚はるれば、内部一方となり、人仏神にのみ囚はるれば、外部一方となりて、一方は空虚となる。故に両道一体となる方法を考へずば目的は達し難し。この両道一体と化せしむるには大自然の懐中に抱かるるにあらざれば望みは達せず。故に接続根を正しく導くには内外一如の法則に従はざるべからず。内外一如の法とは即ち内を信じ、外を信ずるにあらざれば一体とはなり難し。一方を信じて一方を信ぜざれば、其は正しき信にあらず。両者一体となりたる信を厚ぅするにあらざれば、真の信にはあらざるなり。仏を信ずるならば魂を是に順じて信じ、神を信ずるならば霊を共にして信ぜずば一体とはならざるなり。所謂信の心こそ大切なるべし。信の心とは即ち接続根によって得らるるなりと悟らざるべからず。信と心即ち両道一体となりて、はじめて魂の卵は孵化されて神に通ずる雛鳥は現出せらるると思はば、その方法は案出せらるるならんとの思ひを抱きて工夫し見よ。是を小さき例に取りて験する時、鳥は卵を生みて其卵を羽の中に抱きて、分秒も休まず是に熱を加へて孵化せしむるにてはあらざるか。是によって世人は修行の道をさとる処はあらんと思ふが如何 !
卵を抱きて熱を加ふ !       世人の体内に下され居る神の卵に、信と云ふ熱をあたへて是を孵化しなば、必らずや雛鳥は現出すること疑ひなからん。信とは熱なりと思はば、信の意味は自づと理解する処あるならん。汝の魂は求て得たるにあらず。求めずして下されたるにてはあらざるか。ここに信の方法はある筈なり。求めて得たるものなれば、其には何か望みありてのことなるが故に、法も従ってそなはり居る筈なれど、もとめずして受けたるものなれば、是には求めずしてなし得る何等の道なかるべからず。斯くと聞きたる時、慈音はこの意味に対して疑念なし居ると見え何か具体的に諒解したしとの質問なるが、かかることは訳もなきことなり。例へば小児が父母に対して金銭を求むると仮定して考へ見よ。小児の金銭を求むるは何か心に目的ありてのことなるべし。然るに父母は是と反対に何も求めざる小児に金銭を与ふるならば、其小児は受けたる金銭によって何を購はんかと考ふるならん。其と同様の意味と解釈せばかかる事は訳もなきことなるべし、求めて得たるものには何か目的ありてなるに不拘、もとめずして受けたらば其によって何をなさんかと思ふが故に、そこに新らしき法を工夫するは当然なるべし。求めざるに受けたる肉体、求めざるに宿されたる心魂、この具備あるによってそのものにて何かなさんと考ふるが故に広きに渡って学問修養して、世の中に処して活躍せんとはかるにてはあらざるか。是即ち法なり。

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