覚者慈音1615   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1615
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十九      接続根と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・24


 この項目に対して我、先に語りたる身心と霊とをつなぐ具を接続根と仮称しをきたるが、是に対して世人はあまりに重視なし居らずと思ふが故に、ここに再び詳細に説明せんとす。先づ人と仏とをつなぐ具を接続根と仮に考へ見よ。然して更に仏と神とをつなぐも亦接続根なりと思はば如何 !      世人の修養修行は外を考ふれば、内を空虚とし、内を考ふれば外をおろそかにする傾向あるによって、我便宜上、人と仏、仏と神と云ふ宗教の言葉をかりて説明せんとす。其心して聞くべし。然る時は内外一如の大自然を認識することを得んと思ふが故なり。物の種子を蒔きて、其を他のものに変化せしむるも、即ち接続根あるによってなり。先に語りし瓜のつるに茄子を実らせるも、接続より接続と変らしめ行くによって、結果は得らるるは是自然の法則なるが故にこそ成功するなり。人と仏即ち両者をつなぐは接続根なり。是によって人より仏に化せしめ、又更に仏と神とをつなぐ接続根によって神に化せしむれば、人は即ち神に変ずる道理も知ることを得るならん。故に接続根は大切なりと説きたるなるなり。是は外部の法則なれど、人と仏と云ふ言葉を内部に通ぜしむれば、即ち身心と魂の関係となり、又魂と霊とのつながりを仏と神との関係に用ゆることを内部の接続と知らば可ならん。所謂外部には人と仏と神に接続し、内部には身心魂霊と接続すと思はば、両者は内外一体の関係となるは明らかなるべし。故に大切なるものは接続根なり。即ち身心は人に合ひ、魂は仏に合ひ、霊は神に通ずと知らばうなずくところあらん。もし此接続根即ち一人々々にあたへられたる、個性なる自我心こそ、大切なるものにて、是が用いかたの如何によって、或は動物に顛落し、或は仏心に化せらるるものなれば、用法の方法如何によって、かくも大なる相違あることに重点を置かざれば、目的は達し難し。自我心を育つるは、大自然の懐中に抱かれずば、正しき接続とはならずして中途切断さるる憂あらん。人と魂、魂と霊と接続せらるる以上、又人と仏仏と神との接続せらるる以上、接続とは何かと云ふことに対して考慮を廻らさざるべからず。こだま会に於て我、円海にて語りたる、世人には神となるべき卵を与へられありと語りしことに対して、世人は如何に考へしか。肉体交はりて人を生みたるも是接続根の現はれなり。然して人と生れて其人々に与へられある魂は誰によって授けられしか。是は肉体結合によって作られしにはあらざるべし。然りとせば何か此魂の宿りあるは、何処よりか下されしことに考慮せざるべからず。魂とは即ち外を考ふれば仏なるべし。故にその仏と云ふ魂が何なるかを思惟し見よ。肉体に生れたるさへ不思議なるに、まして魂のそなはりあるは尚更不思議とは思はざるか。聊か皮肉なる説明にて世人は解釈に苦しむならん。是を深く工夫してよくよく考慮を払ふべし。

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