覚者慈音1613   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1613
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十八      通力と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・24


 顔形異なるが故に、従って心も異なるとのみにては、正しき回答とはならざるべし。観相学にては是によって、其人の個性を看破する称へ居れど、我に云はしむれば其は或一部のことを知るにすぎずして、その全部を判定することは不可能なりと語るものなり。例へば怒りを催したる人の顔を見ば彼は怒り居るとの察しは得らるるならん。又嘆き悲しみ煩悶等の場合も、一見して是を悟ることは難きにあらず。習慣性によって知ることを得るならん。されどその怒り悲しみ煩悶等なし居るは、何によってかを知ることは得ざるべし。我より彼を怒らせたるなれば、其は我なりとの事は判明すれど、他によって怒り居る人を見ては其原因は判明せざるべし。其と同様にて人の心中に貯え居る事柄は一見して何なるかは知ること難からん。唯かかる事すら知り難きにまして、其人々の個性を外部より一見して看破することは不可能なることは云はずもがな知らるるなり。天の自然はかくの如く広大なるが故に、わづか人間一人々々の事柄に対してすら、かくの如く判明せざること多し。まして宇宙全土の事柄をきはめんとせば、容易の修養にてはなし遂ぐるものにあらず。よって修養修行を志すものは大自然の真髄を認識して、其に従ひて行ぜば必らず通力は得らるると承知せよ。大自然の懐中に抱かれて始めて、大自然の如何なるかを味ふことは得れど、余りに枝葉に囚はれて見聞のみ広くなし居りては、何れが是か、何れが非かの区別さへ明らむることを得ずして終らん。大自然の道理を一つさへ明らむれば、枝葉の万法は知らずとも行ひには差支なく通力は得らるるなり。所謂一法を修すれば万法に通ずの教への如し。さとりとは自然の真髄を明らむるを云ふなり。動物には動物の根あり。植物又然り。地球も太陽も星の類に至る迄悉く根ありて組織されたるにてはあらざるか。すべてのものがすべて根を有するならば、その悉くが根にかへせばみな同一の関係とならん。故にすべては空なりと説かれあることも推して知ることを得ん。空即ち根なり。種子なり。故に原理は根よりきはめて幹に至らしむれば、すべての道理は知ることを得るは必然なるべし。一つの種子が地上に下され、其種子が又変化して次に異なりたる種子に変じ、其が次第次第に変化して、更に異なりたる実を結ぶは是進化なるべし。宇宙の大自然はかくも広き範囲に化せられ行きてあれど、是をもとに復さしむれば即ち一に帰す。是宇宙大自然の道理なるが故なり。

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