覚者慈音1612   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1612
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十八      通力と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・24


 大自然の凡てを認識なしたるならば如何なる事柄に対しても、敢て不審する処はなかるべき筈なり。唯不思議と思ふことは、其大自然の根本原理が何に依って作られしかと云ふ点に帰着す。是を知り是をきはむることは、神にあらざるものの他知る由もなからん。所謂無始終霊子は誰によって作られしかと云ふに至っては、既に万策尽きて其を体得するは難き故なり。
 斯く語らば神とは無始終霊子を指すかとの質問ならん。されど我等に云はしむれば、さにあらずとのみ答ふるの他なし。何となれば世人に是を知らしめんとするに対しても言葉なく、又言葉にて云ひ現はすことの至難なるが故にて、所謂その極致なる神のもとに至らずば感受することを得ざるが故なり。かかる至難なる極致をきはめずとも、順序を追ひて歩みを運ばば何時かは其処に到達することを得ればなり。故にかかることを考へんよりは、寧ろ現在の処より次第に順序を重ねて修養をつまば、却て疑ひは早く氷解することは明らかなりと知るべし。とにかく無言詞界迄は言葉にて説明することを得るによって、言葉のあらん限りは文献によってさとり、言葉なき所迄到達すれば、その後は自得して験せば、明らかに知ることを得るによって語らずとも悟ることを得ん。よって早く無言詞界に到らんことを願ふべし。
 さて通力とは道を作りて是によって目的の地点に到達することを云ふにて、道なくして通力は得られざる事は誰も異論の余地なかるべし。汝等の世界には汝等の行くべき道あり。又他界に有する異なりたる道もあるなり。みな其々異なりたる組織あるによって、道も従って異なるは是又自然の法則にして、すべてを通ずると云ふに至ってはみな其々の法に従って進まざるべからず。是を小さく説明すれば人体に関しても同様なるべし。内臓には内臓の其々に有する自然の道あり。是を順序に従ひてみな其々の道を有す。もし此道をあやまてば病苦のなやみを併発する憂あらん。心臓には心臓の道あり。肺には肺の道あり。その他耳口鼻悉く道あるによって通力は得らる。もし此道に通ぜざる欠陥あらば通力は失はるるは云ふ迄もなからん。是は肉体組織にて即ち有物自然の法則なれど、是に依って心意魂魄の関係を明らむることは難かるべし。何となれば心意魂魄は空なるが故なり。されど心意魂魄にも即ち道なかるべからず。この空なるものに対しての説明には言葉によつて完全に説明することは至難なるべし。肉体に関連してわづかに其一部を語り得るにすぎざればなり。唯機械に動力を与ふれば運転すると云ふも誰も知るところなれど、人間機械は同種類のものにて、是が一々の事柄に対して、この人は此組織なるに依て、この人の機械を是にあたらすれば可なりとか、此人の機械にては是には適し難しとかの択びかたは、是を定むるにあたってはかなり判別に苦しむならん。即ち人の天分を肉体によって定むることは至難なるは、世人のよく知るところ、其は其人のすべての機械が同種類にて、はたらきかたの異なること余りに多き故なり。是等の点より迷ひは深くなり行くは是何故ぞと、学者にたづぬるとも是には、明確なる答へをなし得る人は稀なるべし。同種類の機械にて其はたらきが悉く同じからざるは、何故なるかについて研究をなしたる人は少なしと思ふが如何 !    耳目口鼻によって是を鑑別せば、十人悉く同じからずと世人は称へ居れど、その耳目口鼻が変りたる場所にあらず。そなはりたる処は同様なるべし。然るにその姿がみな異なり居るが故に、個性を判定することは得らるると語り居る人もあれど、そは表面にして内臓の異なりたるにてはあらざるべし。

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