覚者慈音1610   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1610
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十八      通力と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・24


 心を慰むるための肉体と思ふが故に、心は肉体の引力によって執着す。肉体なくとも心楽しくなるならば、如何なる処に移さるるともよしとの考へを持つならば、何時にても肉体を離るる事は明らめらるるならん。又肉体亡ぶれば心も共に滅すとの考へを持つが故に、尚一層肉体よりはなれ難き苦痛を感ずるは、是又是非もなきことならん。我死して他界に至り、又我は生きると教へらるるとも、現在の我と来世の我と一体なるや。果して其を明らかに知り得るならば其は喜しきことなれど、現在の我は未来に至りても同じの思ひの我なるかを、明白に知ることの難しと考ふるが故に、恐怖はまぬがれざるなり。今の我、他界の我と同一ならざかを判別する心は、何によって是を知り得るやと云ふ実に微妙なる考へを有し居りて其に対しての解決を与へくれし指導者は一人としてあらざるが故にこそ、人間は死を厭ふにてはあらざるかとの疑ひを抱き居るが故に、眠りは持続して醒むること難し。其は恰も地上に眼を下して天界を見ざると同様の姿なり。世人は地上のものにのみ眼を光らせて、天界の広大なるに眼をむけざるが故に、かかるあさはかなる心を抱くなり。世人の眼は地上の表面を見ることを得れども、地底の姿を見る眼はあらざるべし。
されど眼をあげて天空の高きを見ば、其広大さは眼に映るならん。今これを一層強くして心眼を開らかば、其には又一段と異なりたるものを見ることを得ん。然して尚一層強くして霊眼迄開らかしむれば、宇宙の大自然をも見る事は難きにあらず。然る時は其霊眼を地底に注がば地底の余りに狭隘なるには一驚を喫するならん。狭隘なる地上に百年千年生存したりとてその楽みの程度も亦小さきことを発見すると思ふなり。是と反対に天界の余りに広大にして、且つ楽みの程度も従って大なるに気附きてはじめて、天界を恋ひ慕ふに至らんことを我等はよく知る。故に早くめざめて通力を得て自由の安楽を求よとすすむるものなり。
 例へば汝大なる岩の上に立ちて周囲の景色を眺むる時、その周囲の景色が余りに見事なる時は、直ちに岩を下りて其処に到らん。恰も其と同様の関係あるなり。地球と云ふ岩の上に立ちて、広大なる天界の美はしき様を見ては、地球の上に長く止まることは好まざるべし。直ちに下りて其処に至るは人の心のならはしなるべし。法とはむづかしきことにあらず。明らむることを計るは即ち法なり。美はしき処を見るは即ち心眼なり。心眼によってものの理を見きはめ、歩みに依って其処に至るは即ち法なりと知らば可なり。通力とは他にあらず。歩みを運ぶにて道をすすむるは即ち通力なり。

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