覚者慈音1609   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1609
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十八      通力と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・23


 世人は地球に生存して訳もなく其日其日を送り居るは、浮住界にさ迷ひ居ると同様の姿なれば、早く覚醒めて覚らざれば肉体亡びては尚も浮住界の苦はまぬがれざるべし。たとえ百年生くるとも空しく眠り居てはせん術なし。たとえ其の中に於て一日たりともめざむることを得ば其にて可ならん。即ち百年の夢は一日のめざめたるに及ばずと思ひて行ぜられんことを !  さればめざむるとは如何なる方法によってなさるべきかとたづぬるならん。世人は現在住居なし居る地球にのみ囚はれて、他に種々様々の世界のあることを知らず。己が住居しある処は全宇宙の中に於て最もすぐれたる所なれば、是以上の世界はあらざるべしと思ふが故に、幾年生くるとも尚未練を残し居るにてはあらざるか。もし現在住める世界より勝れたる所ありと知りて、其処に居をかへよと命じらるるならば喜びて趣くならん。己が有する肉体を離れては、空虚なる姿となるによって、他に如何なる美はしき処ありとも、肉体を伴ふにあらねば甲斐なしと思ふが故に、執着はまぬがれざるなり。今汝が有する心は他の世界の人類に直ちに移さるるものならば訳もなく現在の肉体を捨つるならん。仮に今我は貧者のなやみを受け居る境涯にありとして、其心が直ちに富者の肉体に移さるると見なして考へ見よ。然る時は直ちに諾と答へて赴くならん。肉体は機械にして其肉体を支配なし居るものは心なるべし。世人は物見遊山に行き度しと考ふるも、みな心を娯しまするを目的となし居るならん。美味を味ふも心なるべし。眼を楽しませ、耳を喜ばしむるも、みな心にあるにてはあらざるか。心楽しければ肉体は如何あらんとも左のみ苦痛にてはあらざるべし。高き山に険はしき道を喘ぎ喘ぎ上るも、頂点の美観を娯しませんとする心より肉体を苦しむるとも、さのみ厭ひとはなさざるにては有らざるか。所謂肉体の苦も、心の楽しみを得せしめんとの思ひよりいとはず歩みを運び居ることより考へ見よ。帰する処は心の楽みに帰するならん。美服を纏ふも肉体を娯しませるにてはあらずして、心を楽しませんが為なるべし。夜眠らずして碁将棋にふけるもみな心の娯しみにて、肉体は是に従はせ居るならん。すべては心の楽みに他ならず。故に肉体と心とは常に一体となりてありながら、帰する処は心に深くなし居ることは云はずもがな明らかならん。心の持ちかたによりては苦も苦にあらず。楽も亦楽にあらざる道理あらん。苦楽は即ち心にあるなり。肉体亡ぶれば心も是に従ふと考ふるが故に、死を厭ふ結果となるなり。是等はみな自然の法則によって斯くなされたりと思ふが故に、現在住める地球より離るるをことを厭ふなるべし。即ち自然の法則より引力にひかれて一方に偏し居る故なり。是を天の引力に従ふならばその思ひは変じて執着の心は離るるなり。執着するは引力なり。執着を離るるは引力が圧力に変ずるが故に、起る現象と知らば肉体執着のなやみより、霊的執着に思ひを致すは是又霊の引力に従ふ故なりと知らば、従って棄執着の法は自得することを得んと思はば可なり。

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