覚者慈音1608   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1608
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十八      通力と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・23


 世人は智慧を重ね然して宇宙の大自然の姿を正しく認識なし得たらば、此理も従って明らかに知ることを得るは難きにあらざるなり。空間に樹木を育つる如きは、汝等の世界にては如何に考ふるも其理は解するを得ざるは当然なれど、他の世界の組織を知り得たらば、合点することは難きにはあらざるべし。故に智識を拡大して宇宙の原理より組織に至る迄、その悉くの道理を知り得たらば、たとえ汝等の世界に於て測り難き事と雖も、容易に認知する事を得るは、是智慧の徳によってなりとの考へを以て、一層自然の如何に広大無辺なるかを認知せよ。其には自然の正しきを知るにあらざれば求めて得がたし。
 例へば汝等の世界に於て雲にまたがり空間を天かけると聞かされなば愚なることよと思ふならん。其は重量と引力を考ふるによってなるべし。されど引力圧力重量を有せざるものならば、空間を浮遊するは道理なりとは世人も知る処ならん。軽気球の其如く、又飛行機の其如くならば、雲にまたがりて天かけるとも其は不思議とは考へざるべし。雲にまたがりて天かけるには何かそこに一種の異なりたる一つの法力なくんばかかる事はなし難かるべし。慈音が游魂して各所に到ることをなすと聞かされなば、世人は是に対して疑ひの眼を注ぐならん。慈音の游魂は恰も雲にまたがりて天かけると同様の関係なりと考へなば、是に対しても亦いぶかりの心を起すならん。されど今一層の深く思ひを致し慈音より発したる電波が、その対照となるべきものに共鳴したると同様の関係ありとして考慮するならば、是にはいぶかりつつも何かそこに合点する処あるならんと思ふが如何 !
  人は己なし難きことを他人がなしたりとせば信ぜざる傾きあり。他人のなし難きをなしたりとて唯疑ふのみにては智識は増大するものにあらず。故に其なしたる人の技に対してよくよく理を求め、是を推測するならばその行ひの可否は従って判明するならん。唯疑ふのみにてはさとりを得ること難し。通力の理をきはめてはじめて通力は得らる。理を知らずして徒らに迷ふは空しく光陰を空費するにすぎず。今慈音は欣情に向ひて、我も汝も未だめざめず眠り居て浮住界をさ迷ひ居ると語りたり。是我の言葉にはあらず。即ち彼等二人の言葉なり。我、是を聞きて喜ぶ。然り、然あるなり。日々の生活に於て唯訳もなく暮し居るは、即ちねむりて浮住界をさ迷ひ居るに他ならずとの点に対し、斯くさとり来りたるは喜ぶべき現象にして、尚一層つとめをおろそかにせず、早く浮住界を離れて速に天界の広き処に到らんことを願ふものなり。祈るものなり。斯く気附きなば眠ると云ふことの理も推してさとる事を得るならん。欣情の夫の眠り居ると云ふは、即ち是と同様の姿なることも従って想像することを得たるならん。めざむれば天眼通は得らる。眠り居ては天眼地眼のまなこは開らかれざることは云ふ迄もなからん。

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