覚者慈音1606   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1606
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十八      通力と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・23


 世人は物体を対照としてすべてを観察なすが故に従って距離を聯想するなり。例へば世人の住み居る地球と他に存在する世界を観望する時、彼と是との距離をはかるが故に、もし死して魂が其処に運ばるるならば、何億年かの時間を要すと想像するならん。是等は物体を対照として考ふる故なり。霊はかかる距離を有するものにあらず。肉体を有する間の心のはたらきは肉体によって、心が種々様々のはたらきをなし居れど、肉体と心が滅却して魂を残さば、霊は忽ちその到るべき処へ分秒の時間をも要せず到るべき処に到らしむるものにて零空には、距離も時間も有せざるが故にかく速かに自由の行動をなし得るなり。浮住界に置くものならば浮住界に、天界に昇るものならば天界に、或は地球の空間に迷はしむるものならばそのままにと、霊の力は斯くも自由自在になさしむるはたらきを有すと思はば可なり。霊は魂(たましい)の欲するがままに行動することは前巻によって説かれたれば、既に世人は承知なし居る筈なり。故に多くは語らざるべし。人魂の空間に浮遊するは肉体にそなはる心と魂が未だ完全に分離なし居らざるが故に、心と魂とは相互波長を送りて或一種の電力を現はし居るによって、かかる様を肉眼にても見ることを得るなり。恰も電車の走り居る時、火花を空間に散らすと同様の関係と見なさば従って想像することを得るならん。世人の中には人魂のことを他より聞かされ又は自らも見たることあらん。是等は未だ肉体と魂との関係はつながり居ると知らば解することを得ん。健全なる人の中にも遊魂離魂を行ふ人あり。是等は前巻にも語りたれば省略す。慈音は游魂を常に行ひ居て彼方尖方と自由に遊ばせ居るが故に、居ながらにして様々の事柄を知り居るなり。即ち是等は音楽的作用(はたらき)より脳波のあつかひかたを知るによってかかることを行ひ得るなり。大脳のはたらきは所謂人体エレキとも云ふべき作用をなさしむる故に、脳波の波は電化されて種々様々のはたらきをなすと知らば、是は学理にても証明せらるるならん。脳波の電力あるが故に、学者は現今是に依って人智の測定器を工夫なし居るにてはあらざるか。余事は別として魂を霊に託して霊魂一体とならば、通力は意の如く行はるると云ふ原理はここに存す。故に肉体を有する間にこの理を知りて行ずるにあらざれば、肉体亡びての後は是を修することは難き理も推して知ることを得ん。

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