覚者慈音1602   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1602
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十7      天眼通と地眼通   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・22


 世人は車を走らすに前方に用ゆるか、或は後方に退かせるかに対して考へ見よ。車は何れにも廻転するならん。今一つ例をあぐれば世人の肉眼は後方を見るや、前方を見るや、云はずもがな前方なるべし。後方に眼を向くる人は恐らく稀ならん。ここにわが思ひと世人の考へとの相違は生ずるなり。身を整へんとて衣食住に囚はれ居らば、心は其に対して労苦を伴ふ。心苦しまば魂は又苦しむ。是理なるべし。其は車を前方に走らせんとして却て、後方に退かしむるに等しとは考へざるか。所謂前方に進めんとして却て逆行なし居るに等しければなり。肉体を整へんがために心を労し、心を労するが故に魂も亦労す。故に前方に進まずして、後方に退く結果となる故なり。身を整ふるは心にあり。心を整ふるは魂にありとの意味より、我等は身心整はば霊は是に伴ふと語りたるにて、その方法を語りたるにはあらざるなり。
 今慈音は我の語ることに対して、その言葉の一々考慮しつつ認め居るにてはあらざるか。一句を認めては考慮し、一句を認めては又考慮し居るは何故ぞ。是その言葉に対して明らかに意味を解せざるが故ならん。故に思慮をなし居るなり。思慮する毎に彼の智慧は次第に深く変じ行きつつあるなり。されば此書を読む者その思ひにて、一句を読みては疑ひを疑ひ、また読みては疑ひ、然して湧き出づる智慧に依て是を判断しつつ読むならば、不確定信仰は確定信仰と変じて、遂には天眼地眼のまなこは開らかるるに至らん。我等の導きは即ちここに存すと知らば可なり。是方便の方法なるに依ってなり。例へばこの経路を辿りなばかかる処へ到達するやと考ふるは、未だ不確定の事にて何れかとは定め難からん。然るにその道を辿りてその処に到りはじめてあやまちなりしか、或は正しかりしかを知ることを得るならん。かくしてこそ確定は得らるるなり。一つの事柄に対して迷ふは疑ひと信との関係あるによって、是は相対関係となり居れど、その物の凡てを究むるに至って始めて一方は去りて信となり、或は疑ひとなるなり。疑ひし事も信なり、信ぜしことも疑ひと化す。この言葉の意味は世人には解し難かるべし。歌人は居ながら名所を知ると云ふ言葉あり。是等は文献によって得たる信を云ふならん。されど事実と文献とには多少の相違あることも考慮せざるべからず。我等実験より得たる事柄を世人に知らしめんと計るとも、世人の想像のみにてはその事実を確かにきはむること難し。其は実際と言葉とにてはそこに云ひ知れぬ隔あるに依てなり。即ち小さき事柄も言葉にては誇大に感ずる事もあり、又大なることも言葉にては却て小さく感ずることもあるが故なり。その事実をそのままに伝ふることは巧みなる文章家にあらざる限りなし難きことならん。文章家と雖も事実を事実のままに伝ふることは容易の事にはあらざるべし。
 世人は天眼地眼と云へば、古代文学より想像して却て我等が説を曲解すること多きを知る故に、わが説は世人の意志に反すること多かるべし。依て今後我等が説を聞くにあたってすべてを白紙にかへし想像力をたくましくせず、唯そのままに聞かれんことを望むものなり。従来の宗教者が余りに異様なる説明にて衆人を迷はせたる結果、却て天地間の姿はお伽噺の其の如き印象をあたへしめ、世人は一種の妄想狂に化せられ居る如き感あるを知るによって斯くもくだくだしく注意なしたるなり。

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