覚者慈音1601   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1601
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十7      天眼通と地眼通   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・22


 所謂魂は霊に依ってはたらき、肉体も亦霊によって存し居ることは、霊の力の如何に大なるかに思ひを致す時、何かそこに大なるものを発見することありと思ふが如何 !
  智慧と云ふも霊なり。その霊の偉大さを知るならば、尚深く根原に逆上って考慮せば、宇宙の神秘は那辺にあるかをきはむることも至難にはあらざるべし。其と同時に未来は如何あるかとの理も従ってうなずく処ありと思ふが如何 !
  今少し世人は智慧をはたらかせよ。思慮を深くせざれば物の理をきはめ、然して正しきさとりを得ることは難し。我等は世人の思慮を深からしめんがために、かかるまぎらはしき言葉もて世人を導かんとなし居ることに対して、我等に対し言葉の批評をなすことなく、唯その曖昧なる言葉をよくよくかみしめて考へを深くせんことを望む。幽霊話にて項目の説明を横道に導きたる感あれど、決して傍道に反れたるにあらず。世人は肉体の強弱によって心に傷け居ることを我等は知る。肉体の強弱によって心も亦是に従ふ。心強くなれば魂も強くはたらき心弱はければ魂も従って弱はく変じ行くは当然なるべし。魂弱はくなれば、霊は其に相当するはたらきを与ふるにすぎざらん。魂弱はくならば、天眼地眼の通力は又も弱はし。心身を整ふるは、魂を整ふる法なるべし。魂整はば従って天眼地眼は、又明らかとなる道理も察することを得るならん。心身を整ふるは魂にあり。魂を整ふるは霊にあるなり。されば何れが源にて何れが終りなるかは計り難し。因ありて果あり、果ありて因ある関係より是を推理する時、心身に重点を置くべきか、或は霊魂に重点ををくべきかに迷ふならん。我の語る心身を整へよとは世人の考ふる方法とは聊かその趣を異にす。もし世人の考ふる如く肉体を整へんがために、衣食住に重きををき其によって心安からしめんと計る如き方法を用い居らば、魂は是に対して如何なる関係に置るるやを考慮せざるべからず。もとより心と魂は不可分の関係なるによって、魂も心に和し来ると考ふるか。是を我に云はしむるならば我は否と答ふる他なし。さりながら我の否と答ふるには是又世人の考へと異なる点もあるによってなり。身整ひ心整ひ、然して魂整ふと語りたれば、世人は心身が衣食住によって満足し居らば魂も是にて満足すると誤認なし居るならんと思ふが故に、ここに我と世人との異なる処あるなり。 

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