覚者慈音1600   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1600
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十7      天眼通と地眼通   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・22


  欣情の語りたる死体の場合、音を以て知らしめたりと云ふはその死体が音を出す部分のはたらきあるによって、是を以て知らしめたるすぎず。もし是が音にて現はし難き場合は、他にはたらきを有する部分を用いて何かの方法にて是を知らしむることもあるなり。所謂魂は霊の力をかりて、是を知らしめたりと知らば可ならん。是等の実例は既に印度の行者によって証明せられ居るなり。即ち印度の行者には肉体清除して其中の汚物を取り去り、然して是を地中に埋めて或は一年、或は二年間の後に是を発掘して外気に触れしむれば、もとの如く生存する行をなし居りしことは文獻にも亦事実にも実験せられ居る処なり。是によっても霊と魂のはたらきの関係は推して知ることを得るならん。此事は前巻にくはしく述べあれば其以上は語らじ(前巻参照)今欣情は骸骨に対しても霊魂は離れずあるかとの質問なるが、其は魂のはたらきは既に尽き、唯霊のはたらきは加はり居ることを知らば可ならん。一個の細胞に於ても霊ははたらき居るが故なり。されど魂(たましい)は骸骨に対してそのはたらきはあらざることを附言しをく。かく語りしことに依って幾分か世人には解釈の道は開らかれたりと思ふなり。されど今少し語らずば世人には納得すること難からん。
 例へば肉体に宿る魂を十と見なして考ふる時、その魂より放射せられたる心意も亦、十の関係ありとして考慮し見よ。その肉体がはたらきをなすことあたはざるに至らば、十のはたらきを有する心意は悉く失はるるに至るは当然なるべし。然る時は魂のはたらきはその放射し居る十のうち一或は二の力が失はるるに至らん。然る時は魂は八或は九の力に減退せられたることも推して知ることを得るならん。されど霊は未だ魂のはたらきをあたへあるが故に、魂の程度に対して、霊は其だけのはたらきをなさしむることを止めず、肉体が次第々々に消滅なすに対して、魂も従って力を失ひ七六五と次第に減退して、軈て魂の力が全部失はるるに至らば、その魂を霊は伴ひて他に運ぶが故に、魂は他界に、或はもとの界に置るる理も自づと察する事を得ん。もし魂が執着をなしてその執着よりはなれずば、其に対する霊は他の部分を送りて、その執着せるものに依存しをくことの理も従って知ることを得ん。人は修養修行して魂を分解させず、全部を霊にまかせて昇天する道を辿らざるべからずと教へしはここなり。念と云ふも同様の関係にて、念を残すと云ふは、所謂魂の一部を残したることを指したるなり。是によって幽霊のあらはるることは推して知ることを得るならん。 

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