覚者慈音1599   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1599
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十7      天眼通と地眼通   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・21


 欣情の語りたるところによれば、地下に埋められたる他殺死体が家人に対して音を以て知らしめたりと聞かば、其は不思議と感ずるの他なかるべし。是を原因よりたしかめて結果迄至らしむれば、始めてその理由の如何なりしかは知ることを得るなり。先づ原因なる死体について説明せん。この死体が如何なる方法にて殺害されしかを先づ知らざるべからず。毒殺せられたるか、或は刃にて一部を切断されしか、又は絞殺せられたるかの方法より研究せざるべからず。毒殺の種類にも種々あり。又刃にて切断されたるもその部分によって異なるあり、絞殺せられたる場合より語らんに、絞殺は唯呼吸を失ひたるにあらず。大脳を冒されて死したるなれば、是に霊のはたらきをなさしむるとも其は言葉によって存在者に語ることは至難なり。されどその他の部分は細胞組織の未だ死滅しあらざるが故に霊は伝はりて存在す。次に刃を以て或は弾丸を以て一部が破壊されて死したるものならば、霊魂は是に存在して他の部分をはたらかせ居ることは、現在の学理にても説明することは至難にあらざるなり。又毒殺せられて意識を失い居る者は或程度の解毒剤によって蘇生することも、世人は実験によって知ることを得るならん。されど強烈なる毒薬にて心臓を冒され死したるものは、其は機械の運転を中止なし居るにて、大脳には尚霊のはたらきはなされ居ることも察するを得るならん。天命を全うしたるものと雖も、肉体の消滅せざる限り細胞組織が動じ居ることは、是又世人にも察するならん。さればこそ人命終りても尚二十四時間を経過せざれば葬ることを禁じ居るにてはあらざるか。是即ち霊魂が肉体の機械よりはなれざることを証明したるものなるべし。肉体のはたらきすべてが失はれざる以上、霊魂は是をすてざることを先づ頭に入れて此話を聞くべし。されば肉体の機械がはたらきをなさざるに至らば、何が失はれたるかと云ふことに対して考慮を要す。所謂肉体を運転なさしむるは、即ち心意なるべし。故に肉体静止すれば心意の力失はれたるなり。故に心意は空にかへることも推して知ることを得るならん。魂魄が如何にはたらくとも心意のはたらき静止すれば、肉体を支配することは難かるべし。ここに至って魂魄は迷ひを生ずるに至る。世人は屍を見て冷たくなり居らば、既にはたらきはなし居らずと考ふるならん。そはあやまちなり。もの云はず手足を動かさず、眼を耳をはたらかせざるのみにて、すべての細胞がはたらき居るものにて筋肉などは唯静止なし居るにすぎざるなり。キリストは骸骨にすべての機械をあたへてもとの人間に復さしめたりと云ふ伝説は、此理より考ふれば何か其に対して一種の理由を発見することはあらざるか。肉体の細胞組織に対しても種々様々の変化を与ふるは霊の力なり。是を、学者は唯科学的作用と語り居るは、所謂霊を小さく見るによってなりと公言して憚らざるものなり。何となればもし宇宙に霊空の力なくんば科学は成立するものにあらざればなり。其はとにかく魂を有する動物は、皆それぞれの分野に応じて、或は小さく或は大きくはたらき居ることは此理より察するも明らかなる如く、全身悉くに霊は通じはたらきを静止するにすぎずして、他にはたらきを有する部分は、是を補佐しあることに留意せざるべからず。

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