覚者慈音990 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  霊の役目と其動作について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音990
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.19


 さて初め信仰者は夢に天の使来りて山の頂上に来れとありしことより話を進むべし。汝等は今住める処は僅少間にて一睡の夢の如し。されば完全に永住すべき世界にはあらざるによりて浮世と名づけたるにはあらずや。汝は何処より来りて何処に行かんとなすや。一休と云へる僧は、「うろ路よりむろ路にかへる一休み」と云ひしと聞く。母の胎内と云へるうろ路より黄泉と云ふ道定かならざるむろ路に至るわづかの娑婆の煙草一服の休憩所ならずや。即ち夢に来りし天の使とは、娑婆に住み居る心正しき者に来るの意味なりと知るべし。明日山に来れと云ふは肉体を離るることを教へたるなり。彼の浮世の生活の正しかりしにより天より召されたるを教へしなり。翌日彼の魂(たましい)は肉体の宿を出でて山に上るとは地球の上層を云ふなり。大なる平面の岩に来りて待てとは地上の層にも凹凸あることを知らしめたるなり。彼は死して教へられたる如く淋しく待ち居る処に、再び使来りて二人の女人来ることを告げたるは何故なるかと云ふに考へを廻らし見よ。是ぞ即ち慈悲の使なるを云ふにて、一人は正しき情(なさけ)の慈悲、一人は慈悲の仮面を冠りて己の腹を肥やさんとなす、即ち策者を指したるなり。汝等は娑婆にありても外面女菩薩内心女夜叉の人は多かるべし。善事を教へ導く如く装ひて内に陰謀を企む不逞の徒輩は多し。善道を売物になす宗教者は雨後の筍の如くに在り。彼の信者は浮住界に至りて天の使の言葉を疑はず日暮るるとも怖れず、神の教へを固く守り居たりしなり。日暮るるとは時の至るを指すにあらず。ことの起るを指したるなりと知るべし。又南北方面より来りしと語りしも方角を意味するにあらず。汝等には時間空間を聯想するによって斯く語らずば諒解なす能はざるを知りたるにより、斯くは語りたれど実話には全く斯る言葉を用いあらずと知るべし。故に日暮るると語りしも太陽の西にかくるるにあらずして信者の天界に到るを指したるのみ。南方は南の暖きを現はし、温情を示めし、北は寒冷なれば冷酷を現はしたることと見らるべきなり。



うろじより むろじへ帰る 一休み 雨降らば降れ
風吹かば吹け
                 一休宗純



(うろじより むろじへかえる ひとやすみ あめふらば
 ふれ かぜふかばふけ)



意味・・人生というのは、この世からあの世へと向かう、
    ほんの一休み。雨が降ろうが風が吹こうが、気に
    しない気にしない。
  
    人生というのは、一休みするほどの短さだ。雨が
    降り風が吹く事もあろうが、それも一時の時間。
    心のこだわりを捨てて、からりとした気持ちで生
    きることだ。
  googleより

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