覚者慈音988 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  霊の役目と其動作について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音988
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について


                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.19


 日本の宗教は太陽を女神として組織され居るにてはあらざるか。女は柔和にして仁を現はし平和を現す。素戔嗚尊(スサノオノミコト)は男子にして勇を現はす。若し国を犯し平和を乱す者あらば勇を以て鎮静せんとの教へなるべし。高天ヶ原とは多くの神の集る所、其神々は日之神平和之神を擁護して楽しく音楽に舞踊に興じて安らかなりと。然して此平和の神より授けられし三種の神器とは、仁なる鏡、智慧の珠、勇の剣即ち世を治めんとならば智仁勇の三宝に不如。わけても鏡の仁を我として慈悲の心もて国土を守らば天地と共にきはまりなからんと云ひしならずや。此宗教は汝等三宝の世界、何れの国民に宣伝(ひろめ)るとも決して不道理にはあらざるなり。然るを代々の天子は是が意味をさとらず、文武百官も亦其意味を解せず、天子を余りに人民より遠ざけ己等は虎の威を借る狐となりて、我権威を振いて傍若無人の振舞をなすにより他国人より却て誤解を招くに至りたるなり。故に八紘一宇と云ふ教へを誤りて日本は地球全土を支配化におかんとの野望を抱く侵略国として、国民悉くが大和魂とか云へる争闘者として侮蔑さるるに至りたるなり。されど前述の如き教へなれば、決して悪き宗教にはあらざるなり。是を一個の宗教として国民を指導する者も無く、唯天照大神として無意識に拝するのみにて自らの修養になさんとの観念を抱かしむることなかりしは、実に遺憾のきはみなり。人間は余りに自尊心強きが故に肉体を捨つれば直ちに神ともなり得ると考へ、人間は神の代表者として地上に置れたる如き態度を見せしめ居ながら、動物性本能を現はして恥ぢざるは何事なるか。然して偶像を作りて是を拝して得々たるは笑止なり。是より見れば太陽を神として拝するは余程進化したる教へならずや太陽の恵なかりせば人命を保つことを得じ。是神の作りし尊きものなれば感謝の心もて是を拝するに何の不思議やある。迷信妄信にはあらざるべし。
 斯る方面に於てすら日本古来の宗教は優れたるに不拘、他国より輸入する様々の教へを主とするは不思議ならずや。是はとにかく霊と魂魄を一体として肉体を支配し、肉体是に従はば平和の生活は営れて不平不満の声は影をひそめん。世を治むる政治家は此原理を応用せば必ずや完全に国は治るは必然なり。天皇は金殿玉楼に住み、大臣は宏大なる邸宅を構へ、富貴の者は錦を飾り、民は茅屋に住み貧者は粗服を纏はしむるによって国は危きなり。天皇より卑賎の民に至る迄悉く裸体となさしむればみな同一ならん。然して臥せば六尺余、座すれば三尺余にて事足るも同様なり。然るを尊きものなるが故に、宏壮なる住居を得、賤しく低きが故に茅屋に住ましむる故に、ここに争闘の種は蒔かる。是等の理由より考慮し見るべし。「大名も乞食も同じ櫻花」と云へる句の如く、上下の区分を色に依て定めずとも自づと具はる徳は失はれざるべし。されば分によってその徳を現はさば衣食住によるの必要はあらざるべし。天より種を蒔き地によって是を育て、天晴(あっぱれ)育て上ぐるあらざれば大なる収穫は得難し。心意魂魄は肉を擁護し霊は其悉くを擁護すると知りて此処に悟の道を求むべし。

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