覚者慈音986 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  霊の役目と其動作について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音986
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.19


 汝等は自由々々と自由を願ひ求むれど真の自由は得られざるならん。汝等は正しき自由を知らざるなり。汝等は何等の束縛もうけずして自由自在の境涯となり得ると思ふや。若し然りと答ふるならばそは木によりて魚を求むるに等し。汝等の欲する自由は決して成立すること能はじ。何となれば肉体はすべてに束縛せられてその束縛(なわめ)を解くことの難ければなり。例へば汝等他人と何日行くか、斯る場所にて面会せんと約束すとも何かの障碍ありて其約を果すこと能はざることもあらん。是何かの障碍と云ふ束縛(なわめ)に縛ばられたる故なり。斯る些細なる例に徴するも真の自由は得られざる事を知るならん。是を大きく国家の政治に適用するも完全無欠の自由は得られざるは当然なり。肉体の自由は大概我儘の行為となるのみにて真の自由は決して得られじと我は確言するなり。されば真の自由とは何に依て得られるかと云ふにそれは聞く迄もなく語る迄も無けれど、心意魂魄を霊に帰せしむるにあらざれば他にはなかるべし。
 汝等、慈音を見よ。彼は盲人にして老衰して動脈硬化症とか云ふ病にて手足の自由意の如くならず、寸時も外出することもあらず、耳も疎くなりて聞くにも困難なり。是を肉体本位の汝等に云はしむるならば生きて何の娯みもなし。喰はんにも意の如き食を得られずと愚痴をこぼすならん。されど彼は己が不自由を露程も口より洩せしを我は聞きしこと無し。彼の心は美しくして慈悲心に富みたれば教主は非常に彼を愛す。故に彼の心意魂魄は自由の境涯に娯みを受け居るなれば、我等は天界に遊ばしめて汝等の見聞し能はざる所迄彼を導けるなり。教主は慈音にむかいて、「汝は不遇をかこつや」と。彼曰く、「否、不遇は我の罪悪の報なりと思へば其罪をかこてど不遇は悲しからず」と答へたり。汝等学ぶべきこととは思はざるや。慈音は既に肉体を離れたればこそ己の欲する所には自由自在に往来して何等の束縛をも受くることあらざるなり。我、斯く語らば汝等は云ふべし。教主は斯くも慈音を愛せらるるならば何故に肉体の苦悶を除去して救ひ給はざるやと。汝等の修養修行は此言葉の意味の行ひなるによって真正しき悟りを得ることは難からん。汝等は慈音の心を知らざるなり。汝等は慈音の身の不遇を憫なりと考へるならば自分の不遇を何故に感ぜざる。汝等の肉体は完全なるによって慈音の不遇を憫なりとして彼に接するならば汝等の眼は節穴ならん。彼の眼は汝等の心の底を見る力を有す。唯彼は汝等に接しても常人に立ち返り敢て心眼を開かんとは思ひ居らざるのみ。教主は彼の肉眼に光を与へ、手足に自由を与ふる如きは易し。然るに是を与へざるは彼の栄達を促進せしめんとの深き慈悲心より、彼を現在のままに放棄しあるなり。若し彼にして生前に行ならずんば或は其儘にて世を去らん。汝等慈音を想ふならば速かに行の達成せんことを願ひやるべし。

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