覚者慈音985  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  霊の役目と其動作について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音985
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.18


 さて心意魂魄を霊化せしむれば如何になるかと云ふに、汝等の心意魂魄の汚物を破壊したる結果は、其心意魂魄悉くが皆霊と同様の働きをなすによって心意魂魄は個々別々の働きを静止して、一致協力の働きをなす故に従来とは全く異なりたる姿に変ず。川水の濁り全く清められたるに等し。水底は全く清くなりて魚の楽しく遊泳する様も清らかに見えわかつに等し。人身に於ても神経は沈静て爽快にして不平不満の影だに無ければすべての煩悩は浄められて、却て其煩悩は菩提となるなり。霊によって清められたる人の血液は清くして其人が血書を認めをくも永久変色せざるなり。是霊化したる信仰の現はれなるを物語る証書とも云ふべきなり。斯る些細なる事に迄霊光の徳は輝く。汝等は盲人の手を引きて川の橋を渡るは易くとも、盲人に手を引かれ暗路を歩むことは難かるべし。汝等の現在を見るに恰も盲人に手引きせられて暗路をさ迷ひ歩くに異ならざる生活をなしつつありながら、尚目覚めず歩行しあるを我は知る。汝等は我身を知らずして他を知る力ありと思ふは愚も亦甚だし。先づ我身を省みよ。汝等は何も見えざる盲人なり。早く霊光の妙薬を求て活眼を開きて迷ひより醒めよ。然して明るき神の神の世界に進むべく開き居る我等の道を歩むべし。然せば危き谷底に険しき山坂もあらざるなり。
 霊は汝等を易々と神の都に運ぶ機関車なり。我等が教へは駅より駅に通ずる鉄路なり。汝等は唯その方向に向ふべき修養修行の賃金を支払へば何日にても安楽な旅はなし得らるるなり。教主の仰せられし如く霊は悪にも従ひ、善にも従へども何れにも染まらざるなり。故に汝等の修養は大切なり。心意魂魄は一度染まれば是を清浄ならしむるは容易のことにあらず。例へば河の下流は広くして水も深く又広きが故に泥土も多く汚物も多し。是を清めんとせば仲々のことにては到底清除することを得ざるべし。心意も亦広く深きが故に濁りて明瞭ならざるに依りて是を清除するは極めて困難なり。上流の魂魄濁れば下流の心意は益々其度を加ふるに至らん。されば常に怠らずして修養修行と云ふ箒、否清除器を用いて泥土汚物を清浄せざるべからず。汝等の家屋に於ても一日掃除を怠らば室内の塵埃は多かるべし。まして修養を怠らば心意につもる塵埃は如何あらん。思ふだに怖ろしきことならずや。霊の役目は心意魂魄を常に監督なすのみにて別段是を是正せんとなすにもあらず。彼等がなすが儘に任せ居るなり。されど魂魄が一旦めざめて霊に頼むに至らば此処に初めて大なる力を現はすに至る。心には心の働きに応じ、意には意の働きと皆その保持する特性を活用して決して過分の行ひをなさしむることなければ、安楽にして苦痛を感ぜしむることはあらざるなり。宇宙は空なり。空は霊なり。霊は零に通ずるなり。故に森羅万象霊に感ぜずと云ふことなし。されば霊の知らざるものは一つとしてあらず。又霊に感ぜざるは毫もあらざるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する