覚者慈音984 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  霊の役目と其動作について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音984
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.18


 汝等は一言に霊と云ひ居れど心意魂魄も帰すところは霊なり。何となれば心意魂魄は眼にも見えず手にも取れず、在りと思へばあり無と思へば無し、是霊にあらずして何ぞや。即ち霊は零に帰するなり。神経は肉体の組織に依て働く動力なれば其動作に依て知る事を得れども、心は神経を働かす原動力なれば是を知るは難し。されば空なり。空なるが故に零に帰するなり。魂魄も亦然り。斯く語らば従来我等の説き来りたる論説はみな偽はりなるかとの疑問を生ずるならん。汝等が修養修行の力の程度には斯くあるは無理も無きことなり。されば今少時我の語る処を聞くべし。
 汝等同じ水の流るる川にも河川の区別を設け、又一すじの流れにも水源上流中流下流の名称を附し、其様にも縁り瀬あり滝と名附け居る区別あらん。
 樹木のある所にも、山あり、森あり、林あり、園もあるなり。心意魂魄霊と名附けたりとも是等と同様と考へて推測せば従ってすべては明白となるなり。即ち川の下流を心と仮定せば中流は意、上流は魂、水源は魄と云ふに似たり。水と云ふに変りなく霊と云ふに変りなきなり。心意魂魄霊と云ふは唯名称に過ぎざるなり。汝等に一杯の水を汲み来りて是が水源の水、是が上流の水、或は中流或は下流と云ひたりとも味はって其区別を知る能はざるべし。されど水源と下流に到る間には水には必ず相違のあるは誰もがいなむことはあらざるならん。心意魂魄に変化あるも亦是等に基きて考察せば明らかに知ることを得るならん。心も霊に通じ意も霊に通じ魂魄も亦霊に通ずるは恰も河川の悉くが水に通ずるに異ならざるなり。されば我等が今日迄語りし論説は嘘偽はりにあらざりしことも悟りしならん。所謂心意魂魄を一体ならしめよと云ふは心にも意にも魂にも魄にも混合物ありて透明ならねば、其混濁せるものを清除して透明清浄なる水とせしめよと云ふに尽きるなり。即ち心意魂魄にかかりたる塵汚れを洗ひきよめて霊化せよと勧むるなり。
 斯く語らば汝等は宗教家の云ふ諸々の罪科或は諸々の汚れを払ひ清めて神仏に懺悔せよと云ふに同じと思ふならん。然しながらもとより其に相違なけれども我の語るはいささか趣を異にするなり。宗教者は唯善悪の区を説きて悪道を排せしめ、天国に導く基礎を作らしめんとし又天国の様に依て悪道に陥らしめざるよう縛りなわとして説きたるなれど、我は斯る様を意にして説明するにあらず。汝等善人とならんとせば善人となるべし。悪人とならんとせば悪人となるべし。其は汝等の自由なり。我は唯神の道を語りて汝等に知らしめをかば我の任務は果さるるなり。さればその意味より宗教者と我とには異なる処尠からざるなり。故に汝等は宗教心を離れて我の教へを聞くべし。

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