覚者慈音982  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  四光の世界  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音982
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
四光の世界


                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.18


 四光の法則に従ひて三宝の肉体を治むれば正しく身心一体となり居る結果、正しき悟道は得らるべし。人間は如何に尊き教へを受くるとも此教へを肉体の方向にむけて観察を下す故に、何事も皆肉体一方にあてはむるは是非もなし。是を知りたる浄土宗祖は念仏すれば身心共に成仏すと云へる簡単なる宗門を作りて大衆を導き居るなり。事実念仏なし居らば其身其儘仏になり得るならば此理をよくよく咀嚼翫味して工夫をなさんとの心は起らざるか。法然は云ふ、「念仏は智者の説く観念の念ならず。学問してさとりたる念仏にもあらず。唯無理窟無条件に念仏せよ」と。汝等ここに何か思ひあたる処はあらざるか。此宗教を信ずる者は念仏しながら他人を傷け盗みなどはなさざるべし。されど是を知らざる他国人ならば南無阿弥陀仏と云へる言葉を言葉として歌ひながら、殺生も盗みもなすならん。お題目又然り。仏教の国日本人は阿弥陀を知らざる者なかるべし。念仏と云へば阿弥陀とよべど宝蔵とはよばざるべし。又ナマンダ或はナンマイダーとか称へ居りて完全に南無阿弥陀仏と称へ居る者は少なし。僧侶に於てすらナンマイダーと称へ居れり。是が念仏にして是に依て罪業共に救はれて疑ひなく往生成仏なすと云ふ其理由は弥陀の慈悲は広大なるに依て我に来る者は一人もあまさじとの本願なりと云ふにはあらざるか。汝等今日迄の我の説、貴尊の説、教主の教へをうけたるものとの意味より推理して考察し見るべし。法然は学理より衆生を救はん為の方便として考案したる三分は自力七分は他力と云ふ自力を含む他力宗を組織し、其弟子親鸞は信仰によって他力をおこしたり。親鸞は信仰と云ふ大なるものに依て念の力を養成して却て師の党派よりも多くの信者を養成しつっあるに見るに徴しても信仰の徳の如何に優れたるかに気附くならん。我は是等の宗教の是非を論ずるにあらず。唯汝等をして悟の道に入らしめんが為の参考資料として択びたるのみなり。阿弥陀とは何ぞ。阿とは天空界を弥とは衆生を陀とは大地を現はしたる表現なりと我は信ず。故に阿弥陀とは宇宙全体の恵に浴せしめんとの意味なるべし。宇宙はすべてを作る。是に依て救はるるは当然なりと考へて差支なからん。然りとせば南無阿弥陀仏とよぶも、南無エホバとよぶも其心其念として称ふることに感謝の思ひを貯へて有難し勿体なしとの意味を深くせば往生は得らるる道理にして疑はざる処に光明は現出するならん。さればこそナマイダー、ナンマイダーにも通ずるならんか。信仰の力を強くして念力を養へば安心は得らる。昔の人は女子は疑ひ多ければ信仰を得るは難し。故に成仏は得られずと自力派も説きたり。是を他力派は反駁して女人も必ず成仏す、女子は一度信ずれば男子にも勝る故なりと。然して智者や学者は他の徳不徳を標準として彼の言なれば信あり、彼の言なれば信ずる能はずとの見地より信不信を定めて其事柄の可否を考へざるなり。故に信ずることも早くさむることも亦速し。汝等は道理をたしかめて二度と醒めざる修養に依て信仰の度を昴むる事に邁進すべきなり。

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