覚者慈音909    未知日記 第六巻 光明論    上巻 光明論 巻の五   天地創造の妙

覚者慈音909
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
天地創造の妙



                教主寛大 講述
                2019.⒊30                        184番


 例へば汝等一個人の家を建てんとして充分考慮に考慮して設計なし、さていよいよ建築に着手したる場合にも注意して建て上りて後に果して満足なし得る建築をなし得ずして、彼是と迷ひに迷ひて彼方此方と修繕しても何処か不便なる欠点を見出すなるべし。又或地点より、或地点に通ふ道を作るに一直線に近き道を拓くことを得ざるならん。神の道神の法則にも他の事の為にも計らざるべからず。かるが故に人類との間に於ていささかの障壁あるは是非なきことなり。されど此障壁は人間の作りし法則と異なり、自由自在に乗り超えらるる道は開かれあるなり。是等の障壁を乗り超えさせん為には是に相当する法則と、是を安穏に乗り超え得る方法は教へざるべからず。是即ち神の定められし法則の教への道理と知るべし。
 有無相伴はざる無(無極無と仮称す)に於てすら動ありとせば、不動と云へる事は如何なるを指示すかとの疑問も生ずるならん。又静止と云ふに対しても同様の疑問も生ぜん。されば是等に関して説明するに先だち、今二個の光が明るき世界に入り来りたるを見れば、表面の汚れは既に清められ残るは内部の汚れなる疑問あり。その疑問の中には此動不動或は静止の質問の意義も含まれあれば、鏡によりて徐ろに説明して疑ひを晴さん。先にも説きたる如く神の道は往線復線の二道に分れあれば、往線を帰るも神に帰し、復線を帰れば勿論、安らかに帰ることを得るなり。汝等一道を往線に使用すれば互に衝突して帰るにあたっても亦行くにあたっても不便なるは云ふ迄もなく、誤れば互に争闘をも惹起することすらあらん。斯くては一方に偏するは正しからざるにより、神は二道ををきて其々を明示したるは、是法則とはなりたるなり。然るに人間は己の優越感に囚はれて人は地球上に於ける最高動物なりとの考へより、我儘気儘自己の都合よき法則を案出して神の法則を逆用して往道を帰道に、或は復道を往道に用ゆるなどの振舞を犯すにより混乱に陥りたり。然らば又汝等は是に対して云ふならん。
 神は何故人間の心を神の心と同様に作りおかざりしかと。是は余りに汝等が無謀の質問ならずや。神の心は終始清浄にして汚れなし。されど人間には他の動物と同様なる肉体と云ふ汚れあり。此汚れより要求するは汚れの思ひなれば或場合には清浄の思ひを生じ、又或場合には汚れの思ひとなる。故に混濁清浄の二つが交々発揚するに依って理論ともなり、理窟ともなる。其事柄も二個の光に含まれたり。此光の表面が明白になり居る相互の智慧が磨かれて理も理窟共に変化を来したる事をも意味するなり。神は永久不変の大宇宙を造らんが為の順序として、斯くは取り計らはれしならん。又智慧の面より判断するも是は理論に合ふなり。

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