覚者慈音903  未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四   すべてを霊に帰せしめよ 教主寛大講義

覚者慈音903
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その2
すべてを霊に帰せしめよ



                教主寛大 講述
                2019.⒊26                        178番


 
 さればその行ひとは何なるかと云ふに、汝等は今日悪き考へを抱きしことなかりしか。汝等は今日盗みせしことなかりしか。汝等は今日殺生せざりしか。又邪淫せざりしか。人を欺かんと計りし事なかりしか。汝は今日人の為に祈りしか。人を救ふの慈悲心ありしかなどの行為を指すなり。肉体はたとえ病床に臥し居るとも是等の行為はなし得べき筈なり。この行為をなさずしてその日の恵を受けんと計るは好まざる処なりとの意味を一日働ずば一日喰はずと、身心両道にかけて教へたるなり。是に依て考へを進め見よ。肉体の娯楽は帰するところ心の慰安なるべし。心楽しければ肉体の娯楽は無くとも可なるべし。肉体の為と思ひしことも帰する処は心の要求なりしと云ふ結論となる。然れば肉体を通じての心、又心を通じての肉体と云ふ論旨もここに成立するならん。されど是等の事は心の要求の部類に属せど純然たる要求とは云ひ難し。然あれば真実の要求とは何を求むべきかと云ふにそは云ばずもがな、己の心の親を措いて他に無かるべし。汝等は肉体を通じて求むる心の慰安は唯瞬時にして永久の慰安にはあらざるべし。肉体よりの慰安は稍々もすれば不平不満を誘導して却て辛苦を増すことあれど、霊より受くる慰安は永久にして不平不満を感ずる危険はあらざるなり。されば汝等心を楽しくする方法は霊を求むるにあらん。霊を求めんとならば霊光に依らざるべからず。我、汝等に求めなば与へんと云ひしは是なり。求めよ。霊光より生ずる霊との共通の法は、我、必ず与ふべし。汝等は求めざるにより、否求むる心を起さざるにより、我は与へざるなり。早く覚醒て此心を起すべし。此心を起せば即ち帰魂の道は開かれたるなり。仏教の発菩提心とは是を云ふなり。肉体より受けんとする心は游魂となり、霊より求んとするは帰魂に合ふ故なり。汝等霊より満足を受けんとならば空ならしむべし。然らざれば霊に見ゆるは難し。何となれば霊にあらざれば霊を知る能はず。すべてを空ならしめずば、其は障碍となりて隔を生ずるにより零と零に点を入るるに等しければなり。されば空ならしむるには如何なる法によるべきかと云ふに、是は又至難なる如く思はるれど我の説きし一法を修すれば万法に通ずの比喩を引用せざるべからず。

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