覚者慈音895  未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  霊光に合ふ修養法とは  教主寛大講義

覚者慈音895
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その2
霊光に合ふ修養法は如何にせば可なるか



                教主寛大 講述
                2019.⒊24                        171番


 汝等理論は漸く会得したれど、さて是を己が身に取りて如何なる方法に依て修行すべきかについて思ひ惑ふならん。されば其修行についていささか語るべし。
 先づ是を語る前提として汝等がよく知りをきて是を資料となして進むべき事柄に三つの事柄あり。第一自らの肉体力に関するすべての事柄を計りおくこと、肉体に関して現はる、精神上の変調などを仔細に鑑別なすこと。第二には自分の嗜好する趣味或は是と反対に最も厭ふものを分類すること。第三としては己の智識と世相の姿を熟知し居る範囲を調査しをくの必要あるなり。
 先づ第一の場合について検討せば仮に己の現在の地位は如何なる処におかれあるやと云ふ考へ寄り初まる。学者ならば学者の地位として、又職工ならば職工としてその他あらゆる階級にあるものみなその地位を弁へて他の分野を考ふることなく、又身体強健にして如何なる困苦にも堪え得られるか、或は病弱にして何事にも堪ゆること能はざるかなど、等々に至る迄肉体的の観念を充分に察知して己今後の修行に際して気力が永続なすやを覚悟しをくこと。又己の地位によって生ずる生活の程度をよく弁へて修養修行せざるべからず。然してその地位の向上発達するに従いて生活の程度も亦順次異なりつつ変化するは当然なるべし。己の地位向上するとも生活程度に変化せざることあらば、其修行は誤ちありと知りて工夫を要することあればなり。次に第二の問題なるが人間にはものに対して或は事に対して好むと好まざるあり。好むものはすべて飽くことなく喜びてなし得れども、好まざるは厭ひてなすを欲せず。故に修行の道に取りても好む道より修養せざれば成功は時間を空費するのみにて達成は鈍るものなれば心せざるべからず。学問を厭ふものに学問を強ゆるとも容易に学徳の恩恵に浴する能はざるも、是即ち好まざる報いなれば強ゆるものの罪となるのみなり。然しながらここに考ふべき事は己の天分に具はらざる事を知りながら是を特別に好むことあるに注意せざるべからず。是等は一種の趣味となしをくことに止むべし。
 次に第三についてなり。即ち己の智慧の程度は如何と推測することにして是は唯一見簡易なる如く思はるれど非常に複雑にて至難なることなり。されど此程度を測りをく事は極めて重要なる事柄なれば是非を論ぜず、測定しをくこと肝要なり。然して社会学の己の脳裡に印象し居る程度等も特に考慮に加へをく事も亦大切なりと知るべし。此三つの事柄を先づ予測しをきて後、己の位置が修養の徳によって次第に向上し行くに連れて、其中の最も勝れたる者を見出してそのものを引き延ばす方法に努力するなり。是ぞ天より授かりし個性なりと知るべし。  

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