覚者慈音889   未知日記 第六巻 光明論   上巻 光明論 巻の四  霊光と人根  教主寛大講義

覚者慈音889
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
霊光と人根



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 22
                    165番


 総ての動物には根(こん)を有す。是を動物根と仮称して説明すべし。故に人間の魂も人根と仮称すべし。何となれば魂魄霊三味一体となりたる姿を云ひ現はす言葉、又は此ものの用法についての範囲極めて広く、又複雑となるに際して適当なる言葉に窮したる故なり。魂(たましい)と語らば汝等は魂魄の魂(たましい)を聯想なして誤解なし居ること屡々あるによって人の根、即ち人根なる言葉を使用するにより諒知すべし。
 汝等草木に対して何か感ずる事なきか。即ち引力より是を考へて不審する処あらざるか。汝等は草木の根を足と云ふならば、我は汝等に問ふことあり。汝等は食物を足より摂取するや。若し頭と云ふならば何故首を土中に入れて、美しき花とか葉とか云ふ名称を附したる顔に属する名を空間に示めしおるやとの疑問なり。又是と引力より考ふる時樹木の根は重くして枝葉は軽き故に、引用より見れば根は大地に引かるるなりと云ふならば、人間は頭重くして足は軽きに何故頭を空間に上げおるやと云ふことなり。斯る事の道理は誰にも解釈なし得る如く見ゆれど、是を仔細に総てに等閑にして考ふれば其真を把握するは困難なるべし。汝等是より我の説く処をよくよく聞きて工夫し見よ。
 汝等斯る無用の事に頭を悩ますは愚なる事なりとて是を等閑に附すること勿れ。是には生理学上にも亦科学上に於ても参考資料となるべき理論と実験の道は開らかるることあればなり。先づ人間の生れ来る経路より観察し見よ神の力によりて母胎に宿りたりとせんか。或は科学者の云ふ自然現象より生理学的に受胎したりと見るとするも其は汝等の心任せなり。とにかく母胎に宿りたる胎児は何故に頭を下方にむけ居るや。其は天然自然の理にして生れ易きようになりと云ふならば、胎児は母と同様頭を上にして育ち生るるに際して一転して、頭より出づるは安楽ならんとも理屈は云はるるなり。然るに成熟後三四ヶ月の間頭を地に向け居りて母より養分を摂取し居るは不思議と云はば不思議なるべし。生れて稍々一ヵ年は匍匐状態(ほふく)にして其後日を経るに従ひて頭を空間に上ぐるに至る。是を他の動物植物に比較して異なれる様なきや。よくよく考へ見るべし。引力性より先づ観察するならば胎児の間は大地に引かれ、一年後には空間に引かるる結果とも見なすことを得るならん。是は他の動物には少なかるべし。故に此理より判定を下すならば、人間は天より導かれ居ると云ふ理屈も云ひ得らるなり。汝等は然りとは思はざるか。人間は霊の引力を受けつつある動物なりとはこじつけなりと考ふるや。汝等は云ふならん。樹木は頭を地中に引き入れらるるならば、大地より垂下して空間に足を下げ居ると思はば、空間とは上方にあらずして下方なり。若し人死して空間に浮ぶならば是は上昇にあらずして降下すると同様の結果になるに等しからずや。実に面白き質問なり。



 今汝等の質問より考ふれば人間は逆さまに歩行し居ると見らるるならずや。又天に昇るにあらずして天に引き下げらるるとも見られて面白し。陰陽の理は斯くの如き相対性なれば理屈はまぬがれじ。汝等は頭は植えにると思はばこそ斯る質問をなすならん。即ち太陽を天に配し、己の住居を地として是を上下の区別となすにより太陽は尊くして上にあり、地球はその恩恵に浴するにより下方に帰す。故に尊きを上、卑しきを下と汝等は相談に依て作り出だせし約束ならずや。地球の周囲は空間に飽和され居れば廻転につれて汝等は空間を脚下に踏み居るにあらずや。空間を天即ち上となすならば天を足下に踏みつつあるなり。草木が頭を地中に入れ居るとせば、即ち天を戴き居るなり。又他の動物は腹を地にむけ背を天にむけ居れり。人間は然らず。腹胸も背腰等も唯空間におき、是を前後と称へて進むを前進とか後退とかは背後に帰し居るなり。然して胸を表、背を裏と称し居るより考ふれば胸腹は陽にして、背は陰となる。他の動物とは反対と見らる。然して仰臥するを見れば腹を天にむけ、背を地にむくるも亦他の動物と異なる様の多きを知るならん。是をもし宗教者に云はしむるならば人は最高動物にして、神仏に近きことを示めすなりとも説くなるべし。汝等是等の相違に対して何か覚る処あらざるか。
  

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