覚者慈音876    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音876
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 12
                      153番


 離魂とは肉体より魂をぬき去ると思ふによりて不審疑ひを生ずれども、心の働きを停止せしめてすべてを魂の鏡に映ぜしむる法なりと云ふとも汝等は尚も疑ふや。是は学理に照らしても明らかに証明なすことを得るなり。されども尚疑ふ処は心を静止せしめて果して魂は判別をなして、諸々の事柄を解決なすことを得るやとの事に及ぶならん。是に対しての答は然りと。そは何故なるかとの問に対して我は汝等に問ふことあり。かの催眠術に於て見る如き被術者様々なる態度を示めし、或は思ひよらざる業をなすは何故ぞ。汝等は是が答を我に返へすべし。汝等は知らずと云ふか。されば教へん。汝等の中にはそは潜在意識の働きなりと云ふ者あらん。然り潜在意識なり。されど潜在し居る意識とは何を云ふ。何を指すか。魂か魄か。或は霊かと問はば汝等は霊なりと答ふるならん。然らず。霊は斯る事に関しては別段関係をなさず。斯る行ひにくみせざるなり。是を行ふは即ち魂と意との力にして、魄もくみするにあらざるなり。されど五六才の小児が大石を軽々持ち上げ腹の上に乗せて平然たる等の業を見て驚くの他なかるべし。魄意の力のみにても斯る行ひあるなり。即ち催眠術は心を抑圧して更に暗示と云ふ命令を魂意通ぜしめて起る現象なり。斯く語らば汝等も魂の輝きの大事なる事の理も従がって頷くところあらん。
 汝等は隔夜神話を聴聞するを許されてセイキョウに導かれ来りし慈音の魂(たましい)は、果して離脱し来ると思ふや。慈音に於てすら未だ是を知らず。離脱し居ると思ひ居るなり。されど事実は然にはあらず。即ちセイキョウが離魂の法を行ひあるにて、慈音はセイキョウに連れられて天界に上り来ると考へ居るなり。汝等第四の明鏡に於て見たる如く単独天界を許されたる者は、円海の如く昇天の行法を修得なせしにあらざれば天界には来る事を許されざるなり。神の法則は厳格にしてなすべき任務を果さずば決して許さるるものにあらずと知るべし。されば慈音の現今の程度は昇天の行法に到達するには、今後三段階を踏まざれば許されざるなり。汝等は慈音を平凡に眺め居るならんも慈音の修行は汝等の想像も及ばぬ力を有し居るなれど、我等は彼に向いて我等がよしと許す迄は従来の態度を変ゆる事なく、受けたる力を現はす勿れと誡めたるを、慈音は固く守りて平凡になし居るによりて汝等は軽視し居る事を我はよく知れり。其はとにかく離魂とは心を抑圧して魂の鏡を輝す法と考ふれば可なり。詳しき法は慈音に依て教へを受くべし。我これ以上は語らざれど、第四の明鏡に属する程度として必要なる事柄をのみ語るべし。

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