覚者慈音875    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義

覚者慈音875
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
今日は三月十一日、天皇をはじめ全国民が一斉に厳戒の辞を称えたなら災害に会われた亡魂をより強く清められたろうに・・・・・・・・



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 11
                       152番


 先づ方法は行法秘伝にて教へおきたれば、慈音について学ぶべし。ここには大要を説くに止めん。仮に汝等が平素について考へ見よ。一日の労働に依って現はるる現象は肉体疲労に依て生ずるものは睡魔なるべし。此の睡魔は汝等は原理をきはめ居るや。唯疲労すれば眠気を催すとのみ、其以上深く追及せざるならん。又究めたりとも医者の学説あるのみならん。其のみにては不充分なり。此学説の他今少し知りをくべきあらん。其は何なるかと云ふに睡魔に犯されたる時、魂魄の状態は如何になり居るかについてなり。もとより肉体の過労は神経をも共に労せしめ、更に眼耳よりは直接心を労するにより神経よりとの合はせて二重の過労となり、心身の疲れが麻痺状態となり、ひいては是等によって倦怠を覚えて睡魔を誘ふと云ふ学説は誰も知る処、されど其以上魂意魄に迄及びて考へを廻らさざるは学者にすら見る処、又学者は其以上を別段究めんともなさざるは迂闊なり。我の語らんとなす離魂の法については先づ其以上を考へずば会得は難し。此睡魔に誘はるるは心にして魂にはあらず。故に此場合魂はすべての働きを止めて心を安らかしめんと計りて静かとなる故に如何なる事の生ずるとも魂の鏡は、明瞭に意魄に伝ふるなり。然して意魄はと云ふに是等は平素と異なる疲労も無ければ、心の睡眠を妨げず心が恢復する迄静にしてあれど、唯意のみは何かと行動なし居りて夢を見するなり。是は心の深き眠の間は妨げず、稍恢復したる頃より夢を見するは即ち意の活躍によりてなり。此処にも心意の働きありて雑務は生ず。されど魂より意に働かせて見する夢は正夢となるなり。汝等は今我の語ることを経験なしたるものありや。そは他ならず昼食後倦怠を感じて机上などによりかかるある時、ついうとうととまどろめる時、友人知己等の姿をありありと見てハツと思ひし刹那、眠りより醒めても未だ念頭にかかり忘られず思ひ悩むうち、見たる友人知己よりの報知(しらせ)(思はない知らせ)或は無心の報知、又は無信の報知とか云へるにて帰する処は偶然の報知と云ならん。此事はセイキョウ、テツシンに依て説かれたり。此言葉のうち無き心の報知、即ち無心の報知と云ふは当を得たるならん。心を空にして魂に通じ来ると云ふに合へばなり。心は常に雑念を生じあるを以て他より如何なる知らせありとも、魂に通ぜざるによって要領を得ざれども心沈静なれば、魂の鏡も明瞭に映ずるによりて要領は得らるるなり。此理を応用して得たる例は離魂の法なり。

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