覚者慈音874    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義

覚者慈音874
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
魂魄霊の三味一体となりて気光素を働かする法




                教主寛大 講述
                2019.⒊ 11
                       151番


  心意は如何なる役目をなすかについて汝等は思ふならん。魂魄霊三味一体とならば心意は消失の如き姿となるに依て、別段離魂には関係なかるべしと思ふならん。そは然らざるなり。心意を働かせずしては離魂の法は行はれざるなり。心意を働かすと云ひても平常と異成りたる特別の働かせかたをなすかと云ふにそは然らず。平常と何等変りし行ひをなすにあらずして平常の行ひに関して種々工夫せざるべからず。この工夫と云ふは魂心一体にして意魄も亦一体として更に又此二個の一体を結合して一如ならしめて、魔の侵入を防止する法を工夫するなり。最初の間は何れが心か又魂かに関する区別、又意と魄の区別且つ魂と魄の区別が判明せず思ひ惑ふものなり。わけて心と魂との区別、更に意と魄の区別は分明認識するを得ず迷ふものなれど、是を常に注意して怠らずば把握するは至難にはあらざるなり。心は常に休まず働き居るを以て是は誰にも知らる。されば是を単位として工夫すれば方法は自づと知るに至るなり。心に映ずるを一とすれば、次に来る考へは魂に映る、故に是を二と定め、三には其以上深く考ふる時を魄意と思ひ、其にても解決を見ざる時、更に第四の魂魄に帰すと仮定して工夫すべし。
 例へばここに難問題を発せられたる時、先づ心には解決せんとして及ばざれば心はこれを魂に委せて共に解決せんと計れど及ばず、茲に魂は意に伝へて魂意心三つにて考案するも尚及ばず、斯る時意は魄に送りて魂意魄によって工夫す。此時心は既に放棄されたる形となるによって其問題に触れず、我儘となる事を考へ居るなり。是を雑念と云ふ。然して其にても解決を得る事能はざれば魄は霊に告げてここに魂魄霊の三味一体にて考へ、意は放棄され、回答を得たらば是を心意に送りて答ふ結果となるなり。此事を予め知りて心意はやがて魂魄霊の回答を求むるため静になりて聞き居る故に雑念は消滅するなり。故に汝等にすべてを腹任せにせよと教へたるも心魂は頭にあり、意魄は腹にあるに依てなり。難問を解決せんとして沈思黙考するも腹に依頼するによる事も知らるるならん。
 抑々魂と心より離脱なし得る可能性ありや、否やについては、誰しも疑ひを生ずるならん。然して此疑ひは決して無理にあらず。口には種々なる理を説けども事実を行ひ得る人はあらず。行ふを得ざる人はたとひ名論卓越なりとも空論なり。されば我の説く処を聞きて然して判断し、なし得らるるか否かを試みよ。

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