覚者慈音873    未知日記 第六巻 光明論   上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義

覚者慈音873
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
魂魄霊の三味一体となりて気光素を働かする法


                教主寛大 講述
                2019.⒊ 10
                       150番


 汝等はよく伝説とか霊話などに於て仙人は雲に乗りて飛行するとか云ふを聞きたるならん。然して汝等は此事柄を無条件に信ずるや。若し信ずるとせば如何なる理由にて斯る事を行ひ得るかと訊かれ明答を与ふるにあらざれば信じたるにはあらず。唯然ることを行ぜし事によりて行ひ得るとのみにては空論なり。又少し物知り顔の者には是は遊魂の法とて己の肉体を残して魂火を雲に乗せて運ぶなど、真しやかに説くもあるなり。現在の科学者に是等の説を説きて成程と信ぜしむる事を得るや。唯笑って答ざるべし。されど事実は汝等の世界インドには是を行ふ行者あるなり。我、今汝等に離魂の法について、先づ此事より語り聞かせをかん。此事は深く考ふる余地なきなり。又不思議なる法にもあらず。さりながら此法を行ふ迄の修行はなみなみならぬ行をすまさざればなす事を得ざるなり。其理と云ふは即ち魂魄霊の三味一体となりて気光素を働かする法にして、脱魂離魂の法にあらず。所謂現今汝等が国に用いられ居る電導写真テレヴヰジヨンと同様の理より行はるるなり。是は離魂の法とは全く其意味を異にす。魂魄霊三味一体となりて其によりて、気光素を働かして作り出せる写真電送にすぎず。人間に有する魂魄霊一体とならば斯くも見事なる働きをなし得らるれど、是迄の修行は容易の事にあらず。難行苦行の結果なり。気光素とは念力にして即ち一念を凝らせば様々の法は行ひ得ることは行法にも説きたる如くなり。わけて三味一体の念力は天魔鬼神をも降伏すとさへ伝へられたり。さりながら念力と離魂とは相似て等しからざるなり。念力は動行にして離魂とは静行と云ふ関係なり。もとより離魂するにも念を伴ふは勿論なれども念力のみ働かすとは異なりて、離魂は魂を主として念力を従者となすの相違なり。所謂念力は三味一体が蔭に、念が日向となるによって離魂と念力とは即ち表裏の働きとなるなり。茲に今一つ語るべきは離魂に関して心意の働きが如何なる役目を果すかと云ふ問題なり。

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