覚者慈音870    未知日記 第六巻 光明論  上巻 巻の四 教主寛大講義



覚者慈音870
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
四鏡一体の境地
魔とは間(ま)、隙なり



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 09
                       148番


 セイキョウ、テツシンが汝等に教へし魂魄を米にたとえたるは実に当を得たる名言なり。魂魄は神にかへる米と思ひて実を結ばさば可なり。セイキョウ等が教へたる如く汝等は神の存在を疑ふならば、其有無は別として汝等が心に神を造りなば可ならんと迄云ひたるを汝等は如何に考へしか。悪魔を作るか。神を作りて安心を求むるが是か、悪魔を作りて苦みを引き出すが是かの考へあらば、言はずもがな、安心を得る神を求むるは是ならん。悪魔は肉体欲求の我儘より作り出す故に、直ちに出現を見るによりて易々作ることを得れども、神は魂魄によらざれば出現せざるべし。故に神を求むるは容易の業にあらず。兎角人間は楽を好み苦を少なくして大なる得を得んことを望む。然れども苦みに苦みを重ねて得たる結果の喜びは又格段の楽しき味ひのあるものなれば、先づ苦みを覚悟して事に当らばその苦みは大なる結果を得るは必然なり。故に汝等も苦を喜んで求めよと我は勧めん。我斯く云はば汝等は云はん。我等は苦まじ。其よりは娯しみながら他力の念仏にて来世を安楽ならしめんと。然り、セイキョウ等が教へしは其なり。汝等は念仏即ち弥陀の力を信ずることを得るならば神を信ずる事を得る筈なり。信ずることを得ずして報謝の念仏を称ふる事を得るか。信ずればこそ報謝の念仏或は依頼の念仏、又は無条件に称ふる念仏はなさるるならん。然して其念仏なし居るうちに不知々々の内に弥陀を喜ぶ力と化せられて念となりて往生安楽国を現出せしむるに至るなり。セイキョウ、テツシンの教へしも此理なり。信ずる力を強く養ひて行へば神より生れたる汝等故に、神の親に対面することを得ん。されば汝等その後に至って初めて神の存在を知るに至らん。故に疑ふならば汝等が心に神を作りて是を信じて行ひを慎みなばこの行によりて真の神徳に浴せんことを慮って斯くは教へたるなり。汝等是によりて悪魔の存在もほぼ察するを得たらん。疑ひと云ふことは信ずるに対しての裏面なるべし。されど疑ひを伴はざる絶対の信ならざるべからず。疑ひを伴ふ信はたとえ深くとも亦疑ひにかへる憂あればなり。疑晴れて信じ居りて又疑ひにかへる例は数多ければ斯る信にては到底大願成就成り難し。疑ひ多き人は悪魔を作る事も亦多く、信ずる人は悪魔を作ること少なし。されど迷信妄信は悪魔を誘ふ。又絶対の信に在りては斯る両道にわたりたる事柄は絶えてあるにあらず。然りと雖も此信仰が悪に属せば絶対悪となり、善に属せば即ち絶対善となる。此処にありて信仰は又二つに分るるは是平面的の絶対にして前に説きたる平面対極の陰ともなり陽ともなると云ひし例に等し。
されば先づ真の信仰を深からしめんとならば先づ智慧を働かせて善悪の区を明白にして信仰を進めざるべからず。智慧を用いてとは種々様々の講話を聞き、正しき先導者によりて修養を深くし、然して己の親なる霊に於て正道を求て歩みを進むれば信仰は強くなりて迷ひは生ずる恐れなし。是ぞ疑ひの伴はざる真の信仰となる。欺かるるとも信ぜよ。罪は信ずる者にあらずして、欺きし者にあるなりとセイキョウ等は説きたり。此理を汝等は如何に解釈なせしか。我、彼等の言葉を聞きて感慨無量なりし。彼等は汝等に偽はりを説きて信ぜしめたるならば、即ち彼等が罪を負ふべき深き慈悲心の現はれならずや。斯く迄献身の努力を以て汝等を導かんとなせるセイキョウ等の心構へに、我は引き入れられて汝等が教主とならん事を約して行法を説かん事を約して説き初めしに、テツシン曰く、「教主よ、寛大の言葉は余りに厳に過ぎたれば学者は恐れて却って我等(セイキョウ、テツシン)求めて退却せんとなす傾向あるを遺憾とす。願はくば我等が用いし言葉を以て彼等に真の法力を伝えよ」と、切なる願ひを諒として説くに是が講話の任に当りたるなり。汝等セイキョウ、テツシンの熱心に報ゆるに何を以てせんと思ふや。

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