覚者慈音869    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義

覚者慈音869
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
四鏡一体の境地
魔とは間(ま)、隙なり



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 09
                       147番


  然りとせば尊氏は悪魔に犯されしかと云ふ質問もあらはるるならんも、是は然にはあらざるなり。彼は善悪の区を考へなく意の欲する儘気の湧く儘に乗じて行動をなしたるにて平面的に説けば初めより彼には、悪魔が憑き居たりとも云ふべく線分的に説けば彼は悪魔なりしとも云ひ得らる。然し是は楠父子の帝より見たる観察にして、尊氏の帝より見れば彼は忠臣となる。故に立体的観察すれば悪魔のつきたるにあらず。又尊氏方の帝より見れば正成正行は朝敵となるとも云ひ得らるるならん。尊氏楠氏の行為は人道を教へて導きとなりたれど、汝等が云ふ悪は栄え善は亡ぶるの理も亦ここに存す。即ち肉体の欲望にては悪の尊氏が勝利となり、霊の勝利は正成父子に帰したるなり。汝等何れを願ふや。肉体の栄華を望まば尊氏たれ。永遠の霊欲を願はば楠氏たれ。キリストは悪魔を退けて今の世も敬はる。若し彼にして肉体の欲求を得んとならば一国一城の主とならん。然れども現在の如く人よりは敬はれざるべし。ここに我、尊氏正成父子の今日の様を語るは易けれども汝等には信ぜざるべし。故に是は省略す。又正成の七生報国はなし得られしかは今迄説明せし魂魄の念の理より推し計らばうなずき合点する処あらん。
 肉体の栄えと霊の栄えに隔あるに関して汝等の迷ひは繁くなり。且つ複雑となりて何れを択ぶべきか、未来は知らず、現実の栄えあれば其に勝る喜悦なしとの観念より知らず知らずの不善を企てて悪道に入る。是を悪魔に補はれたりと云ふにて悪魔とは悪き道なりと悟れば立体の解釈は得らるるなり。是等の道理を説くも一般に通ぜざるにより、仮に悪魔と云ふ姿ありげに作りて恐しと思はしめて不善を犯さざらしめんと予防線を張り廻らしたるなりと知るべし。悪魔に誘惑されたりと云ふも心意の迷ひにして霊光には悪魔に犯さるるとか、或は悪魔を誘ふなどの迷ひは生ぜざるにより間(ま)と云ふ隙はなし。魔とは間なり。隙なり。隙あらば風とか空気とか、細菌など侵入し来る。
 例へば美しき女、或は美しき男を見て恋慕の心を生ずるは眼耳の空きり入る魔なり。されど情欲なき老人小児ならば唯美しとのみ思ひて魔の入るべき情欲なければ犯されざるは、情欲と云ふものの性質は悪魔か善魔かなるべし。是を子細に分析して考究せば魔の正体は那辺にあるかを知るに至らん。

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