覚者慈音868    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義


足利尊氏画像と楠正成画像


覚者慈音868
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
四鏡一体の境地
足利尊氏と楠正成父子について



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 09
                       146番


 人徳は天の定むる処、是は修養修行とは別固の関係なり。此処に定まりたる分野とは是等を云ふなり。世には又分を知らず、善人にをかれながら悪を犯すあり。是等は修養にて本然に返ることを得るなり。されど萌り悪として生れたる者は悪に終るなり。毒薬は如何になすとも毒薬にして、用法に依ては薬となる。尊氏の毒薬ありて楠氏の良薬は知られたるなり。我、斯く語りたれば汝等は云ふならん。人の性は善なりと云ふならば何故悪に生れ悪に終るや。本然の姿に返らざる悪を行ひて天分の使命を果したりなど云ふは矛盾も甚だし。然りとせば善とは虚偽かとの疑問を生ずるならん。汝等平面と立体の道理を悟らざるにより斯る疑問を生ずるなり。悪人の尊氏にも善悪正邪の区別を知る。さればこそ己、自ら皇位を踏まざりしなり。彼にも空源力或は霊光はそなはりあるなり。ここに平面と立体の観察の区を明らかに知りをかずば悟りは得られじ。もとより尊氏は心に煩悶の為に悩みありしことは我もよく知る処なりしなり。善心を持ちながら如何にしても善を行ふ事を得ずして、悪に引き戻さるる是を悪魔の虜と云ふなり。然らば果して悪魔と云へる者の存在はありやと云ふに、平面世界より云へばあると答へ、立体より云はば無と答ふるなり。斯く語らばセイキョウ、テツシンの説きたる論説は根底より覆へされると思ふならん。故に是等の理を充分明らかに知りをかざるべからず。
 セイキョウ、テツシンの教へしは嘘言虚偽にあらず。悪魔は正しくあるは事実なり。されど汝等が思ふ悪魔とは何か特別に悪魔の世界ともある如く考ふるは誤りにして斯ることを考へてはあやまたん。悪魔の姿を描きたるをもて絵空事を聯想し、或は仏教又は聖書等より種々様々の悪魔を聞きて幻に犯されて誤解なし居るなり。然れども是等は小乗的にして大乗的にあらず。小乗的とは線分或は平面を意味し、大乗とは立体を意味す。さればこそテツシン等は、「傀儡師首にかけたる人形箱、仏出そうと鬼を出そうと」の例を汝等に説きて教へしなり。悪魔も仏も皆其人々の胸にありとの教へなることに心づけよ。又我に於ても悪魔の虜とならんとの言葉を屡々用い居れり。又神は何故に悪魔を退け亡ぼさざる等々のことも説きをきたり。されば是を立体の見地より詳細説明なして迷ひを解く事とせん。
 己の行動によつて悪魔ともなり、仏ともなる。例へば汝等あやまちて人に怨らまるる種を蒔かば汝等の身辺に何か其相手より復讐を受けて身に危害を蒙ることあらん。是即ち悪魔の現はれにして、人より喜ばれなば感謝の報酬を受くるならん。是仏の出現ならずや。即ち仏出だすも鬼を出すも人々の心より生ずる行ひによりて何れか出現するなり。危害が直接身辺に及ぶも亦心と心の争闘も是又悪魔の出現なり。汝等の国に妾と正妻が顔には相方笑顔を作り睦まじげなる頭髪は蛇となりて争ひ居る絵画の譬喩あるにあらずや。其等は平面と立体を兼備したる教へとも云うふべきなり。故に立体より見ると悪魔を亡ぼさんとならば、すべての人類一体となりて行ひを慎めば悪魔は影を没すと教へたれど、汝等は理解し能はざりしなり。所謂悪魔を作るも汝等にして、悪魔を亡ぼすも又汝等に在りと思ふべし。 

×

非ログインユーザーとして返信する