覚者慈音853   未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音853
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の四     
頭腹一体の完全に行はれたるのちの行法(放心の行)           
                                              教主寛大 講述
                2019.2.28
                     131番


 空源力を喚び起すは何物ぞ。云はずもがな。そは霊光なることは汝等もさとれるならん。霊光は是より活躍を始むるなれど、此四大明鏡が真に一体となり、其後にあらざれば正しき働きを初めざるなり。汝等今後の修行こそは善化するか、もしくは悪化に終るかの境界にをかれ居るなり。されば此四大鏡を如何に取り扱ふべきかはかかって汝等が双肩の重荷となり得るなり。此四大鏡即ち心魂意魄を一体ならしむる事によりて霊光を喚び起すちからあれども、一体になりしか未だ分離し居るかを鑑別するはなかなかにむづかしくして一朝一夕にては難きなり。己には将に一体となり居ると信じたるに効験顕著ならざるは不思議なりと慨嘆し居る声を聞く。己自ら一体となり居ると思ふは未だ一体ならざるによる。一体となり居るか、なり居らざるかの区別を考ふる間は未だ成功しあらずと知らざるべからず。己の修行未だしとて努力なしつつある時、偶然に顕著なる現はれありて驚かさるる事あり。斯る時、其味ひを把握して逃がさぬ工夫肝要なり。一度さとり得たらば其後は訳も無きものなり。又余りに凝り固まれば其処に執着の反射作用の生じ来り其が却て障碍となりて効験顕著に現はれざるべし。物には程度あり。分に過ぎても及ばず、分度到らざるも亦及ばざればなり。是は魂魄のみにして心が他に思ひを移し居るか、或は魂心魄のみにて意が他に転じ居るか、又は魂魄のみにて心意が離れ居るか、更に心意魄のみにて遊魂し居るか、魂心意のみ一体にして魄に不明生じ居るか等々なるによりて、魂心意魄が一体となり居らざる故なり。然らば一体ならしむる方法はと云へば、三巻の巻に説きたる頭腹一体の他に、今一つの方法を加ふるを要す。其方法は頭腹一体の完全に行はれたるのち心魂に自由を与ふることなり。頭腹一体の行中には多少心魂に苦痛と不自由の点あれども行終れば是は消滅す。是よりは心魂に自由を与へて何事をなすとも決して干渉せず。又圧力をも加へず、行かんとなさば放ちやり、帰らんと欲せば思ふ儘に帰らしめて干渉せざる事に力むるなり。是を放心の法と云うふ。頭腹一体となりて唯自若として何事をもなさずば無意義なり。心魂働かさずば倦怠を感ず。故に自由を与へて行動をなさしむるなり。心魂は如何なる処に到る共其所より意魄に報道を行ひて連絡を計り居るによりて其所の状態は、外に出でざる意魄は居ながら是を知りて是に対する対策を構ずることを得るなり。心魂意魄一体となるに及びて初めて斯る自由は得らる。然してこの自由には無理を伴はざるによりすべては偏頗なく処理せらるるも真なり。汝等が奇蹟と感ずる底の行ひをさらさらとなし遂ぐるも四鏡一体よりなさるる事は敢て不思議にあらざるなり。俗言に一念凝って岩をも貫すと云ふあり。又精神一到何事かならざらんと云ふも即ち四鏡一体の念力は自由に神妙不可思議ぞと云ふべき働きありて、行ぜざる者の到底予測を許さざる処なり。

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