覚者慈音852    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音852
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の四     
神の作りたる空源力の放送とは            
                                              教主寛大 講述
                2019.2.28
                     130番


 宇宙自然の理は斯る単純なるものにあらざる事に思ひを廻らさば先づ汝等修養して、宇宙と一体の境地に迄到らしめての後に霊魂の滅不滅を究めざるべからず。唯何も研究せずして机上の空論をなすは悪戯事と云ふべきなり。汝等の心中を見るに口にこそ死ねば点火の消えたる如しと称へ居れど何となく不安の思ひにて、死後は如何あらんとの考へは離れざるを我はよく知れり。是平面自然より受くる相対の現象なるによりてなり。さればこれを心の底より覚り得る程度迄修養せば決心と覚悟は得らるべし。己自ら覚らずば他より如何に教へを受くるも、教へし人が天界より来りしにあらざれば信ずる能はざるは当然なるべし。我は汝等に説く処は疑へば疑へ、信ずれば信ぜよと云ふのみ。然らば我の説く処は虚偽(いつはり)かと云はば決して虚偽にあらず。虚言にあらずと答ふるのみ。汝等命尽きて明らかとなる其迄、汝等の心任せにせん。さりながら早く自覚せし者は立体性より云はば勝利者となることに於て我は云ふなり。即ち誤てる修行して念力を作り其が為に空中楼閣を作りて迷ふ勿れと。信不信は汝等の心任せとして講話を進むべし。
 第四鏡と第三鏡の完全に具はりたる時、汝等の意魄の状態も同一と見なして如何なる現象を見するかと云ふについて説明せんに、先づ汝等が今迄考へし事もあらざりし何物かが現はれ来る。例へば人と対座したる時、ふと其人の来りし用件が何なるかと云へる事が腹より脳裏に浮び来り、然して其要件の始末迄如何になさば可なりとの処理法迄つぶさに知ることを得る不思議の感じが浮ぶなり。思ひうちにあらば色外に現はるるの比喩の如く、人の心の動揺は必ず一種の波長と化して其波長が意魄によって看破せられて、直ちに言葉に組織さるるにより此事柄の何なるかを知ることを得るなり。一種の波長が言葉に組織するを得ざるは、其人即ち相手の人が語るべきか、語らざるべきかに迷ふ時の状態なるべし。第三の鏡のみならば相手の要件の何なるかについての表面のみ知るに止まれど、第四の鏡加はるに依て其が明瞭となるのみならず、其始末迄が明白となると云ふ、是気光素が空源力と共に二重の働き即ち平面より立体となりたるに依り斯くも増大なしたるなり。所謂此処より空源力の働きが気光素と共に働きを開始したれば善悪何れも拡大するは屡々述べたれば此処には省略すべし。

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