覚者慈音854    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義

覚者慈音854
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の四     
頭腹一体の完全に行はれたるのちの行法(放心の行)


                教主寛大 講述
                2019.⒊   1
                    132番


 例へば如何なる危険に遭遇すとも速にその難よりまぬがるる事を得るも此念力、即ち気光素の働きあればなり。普通の人の働きは心のみとか、或は魂のみとか、唯一個の気光素が働くに過ぎざれば線分に過ぎざるが故に限度ありてせまし。されど四鏡一体の念力は平面なるによりて其働きの範囲も広きのみならず力も亦大なり。
 汝等心意の仮面或は頬冠りの手拭を脱ぎて、魂魄の顔頭を現はせよ。顔に衣装を纏はさずとも寒暑には堪え得らるる素質は天より授けられあるなり。然るに世を憚りて仮面を冠り、頬冠りするは何か暗き影ありてならん。眼を蔽へば脚下は危し。心せざるべからず。我、何故に斯る事を突如語り始めしかと、汝等奇異の感じを起したるならん。是にもいささか考へありてなり。汝等日々起床すれば直ちに洗面をなすに、何故全身を洗はざるか。汝等眼耳鼻舌身意の六根の中此四根が顔にある事に心附かざるや。気附きしことあるならば我の話は横道に入りたりとは思はざるべし。汝等は先づ眼を魂に耳を心に、鼻を意に舌を魄として観察し見よ。眼を閉ぢ耳をふさがばすべての用件を果す事能はざるならん。眼耳に自由を与へて初めて用件を果し得ることは得らるべし。眼に如何なるものを見するとも、盗みすることさへなき修養あらば宜しく美女美男を見するとも姦淫せざれば差支なし。耳に於ても亦然り。されば是等の修行の達成したる眼耳に何を見せ何を聞すとも過失を犯すことなければ眼をとぢ耳をふさぐの不自由を敢てなすにも及ぶまじ。
 他人に面を見られて眼をそむくるは如何なる故か。他人にはづかしめられて顔をあからむるは如何なる故か。諫められて耳を塞がんとするは如何なる故か。さればこそ此処に仮面も頬冠りも必要は生ずるならん。汝等が俗言にも彼は賢明にして眼より鼻に抜けたる人なりと云ふにはあらざるか。即ち魂魄一体の境地を示めしたるにてはあらずや。眼を魂とし鼻口を意魄とし耳を心として此四つを一体とせざれば顔の輪郭は正しく整はざるなり。眼を閉ぢ口を開きて涎をたらしてゐねむり居るはあまりに賢明の人とも見えず。又賢明の人には斯る醜態はなさざるべし。汝等多くの人と交はりてよく経験する処あるならん。初見の人に接してもあの人の容貌は云々と云ふにあらずや。風貌の具はると云ふも顔は眼目とするならん。わけても眼に注意を払ふも心魂の働きを主とするなり。口をきりりと結ぶは魄の正しきを示めし居るなり。眼耳鼻舌の整へる人に愚なる人少なし。風采卑しからざるに顔のしまり整はざる人は余り智識の優れたるは少なき事は誰も知る処なり。されどわざと愚人を装ふは眼を見れば推知することを得るなり。如何にかくすとも眼の光は包むこと能はざるなり。

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