覚者慈音850    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四 教主寛大講義

覚者慈音850
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の四     
第四の明鏡に映る如意界の様            
                                              教主寛大 講述
                2019.2.26
                128番


 我、汝等に此三項目を心に貯へをきて鏡を見よと教へしは他ならず。第三光明界に流れ来りし魂魄を汝等が霊と思ひ、第四光明界に入り来るを汝等が魂魄と見なし、第五光明界に来るを汝等の心意と見て工夫することあらざるか。悟りは些細なる処にあるものぞかし。あの光彩を放つを見ては如何に霊光の威徳が広大なるかと知る時、己自分にも行ずれば斯くも神々しき霊光に浴するかを思はば須臾(しゅゆ)も怠るを欲せざるならん。又磨けば第四に見る魂魄の如く清浄無垢となるとせば、我も磨かんとの心勃々ととして起り来らん。第五に見る如き迷ひ多き魂魄は自ら作る心意の咎なりと悟らば、反省して魂魄を汚すことなきよう修養せざるべからずとの念は生ぜざるか。よくよく翫味すべし。
 第一第二の鏡は心魂に属し第三第四の鏡は意魄に属すとは既に述べたり。今第三、四の鏡を一体ならしめて是を使用せんと計る時、如何なる現象を見するかを想像し見るべし。一二三の鏡の間はまだ整はざるを以ての故に種々なる迷ひを生ずれども、第四の鏡現はるるに及びて智慧の光明は輝きはじめ妄想雑念を強く照らす為に、此影は次第に減じて止まるを得ずして次第に消滅し、やがては形なきに至らん。然して其煩悩は却って光明の力を増す油、燈心ともなりて光の度を増さしむる燃料となる。所謂仏教者の云ふ仏凡一体とか、或は煩悩即菩提と云ふは此事なるべし。斯くなれば凡ての無用なる小事には拘泥する事無く、なさんと欲せば着々運びを行ひて躊躇(ためらは)ざれば、業の進行は速かに達成す。四つの鏡が完全に磨き上げられて初めて人間の人間となる。其迄は如何に賢明なる人と雖も真の人とは云ひ難し。真の人となる迄は此処に至る迄の修養は如何なる人と雖も修めざれば天理に反す。故に人は賢愚を問はず卑賎富貴は論議の余地なく、己に授りたる分度迄は如何なる事ありても修めて使命を全うして何時肉体を滅し終るも差支なきよう用心肝要なり。
 汝等の中には斯く云ふ者あり。其は人死すれば燈火の消えたる如く影も形もなくなりて何等残るものにあらず。肉体ありて魂は働くのみ。肉体無くならば何等あることなく霊魂不滅と雖も誰も事実実験せし者も無く、又事実を認識することを得ざるなれば空想にすぎじ。釈迦キリストは幾度にても蘇生したりと云ふも事実にあらざれば信じ難し。適確なる証明なき以上有無を論ずる資料なければ真を得るに足らず。又肉体ありてこそ苦痛は感ずれども霊魂のみとなりて眼に見えざる空気の如くなりたる時。何の苦痛も感ずべき。我等は斯る滅後の事などを信ずる能はずと。理屈をならぶるを我は聞き居るなり。宗教者は是に対して顔をあかくして懸命に説明なし居れど、稍もすれば彼に反駁圧倒されてタヂタヂとなり果ては、汝の如き無法者には何を語るも詮なしとて説得する能はざる奇観を呈するは愚なることよと、我は感心するなり。一般大衆は斯く思ふのみならず、宗教者の中にも斯く思ふもの多きは事実にして唯己の宗教者たる責任上、様々説破し居れど内心は己も迷ひ居るなり。是を適確に認識し居るは却って信仰者に多きも皮肉の現象とや云はん。道を究むる程迷ひは多くなりて認識すること能はざるなり。此迷ひあればこそ人は修行もなし或は修養なし居るにてはあらざるか。他の動物に於ては斯る修養研究なす能はず。人間の他の動物と比較して優れたるは此処にあるなり。されば霊魂滅亡論者と不滅論者の論議を正しく説明して其是非を明白に知らしめ且つ覚らしむるにあらざれば、真の宗教者優れたる学者とは云ひ難からん。汝等は如何に考へ居るや。今我の是より語らんとする処を注意深く聞くべし。

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