覚者慈音841   光明論上巻 巻の四  119番 立体自然  教主寛大講義

覚者慈音841
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の四     



                  教主寛大 講述
                  2019.2.24
                        119番


 立体自然、或は内面自然とは空源力或は神通力を云ひ、平面自然或は表面自然とは気光素或は念力を云ふなり。気光素はもとより其性質は善悪を論ぜずして従ひ、空源力も亦善悪に順ずれども其結果は悪を虐げ善に導く力あり。されど気光素は其力無ければ悪には悪の結末、善には善の結末を告げさする他なきなり。一二三の鏡は気光素の作用を多くして、空源力は三の鏡に作用(はたらき)初めたるなり。故に一二の鏡の模様とはいささか異なり居れるを知るならん。汝等が有する鏡にても知る事を得ん。
 例へば汝等の魂心(一二の鏡)に映じて、汝等は喜びか或は怒りを感ずる時浮きたちて抑へ難き感じの現はれは喜びと怒りとには相違あるをうなずき悟るならん。即ち喜びには笑ひの浮きたち来るあり。怒りには憤怒の浮きたち来るなり。気光素は是を抑圧せんとはなさずして進めと命ぜらるれば進み、退けと命ぜらるれば退く。気光素は唯己の分野を守りて決して他に出づることをなさざるなり。是に反して空源力は善悪に不拘一旦は従ひ最後に至って是を善に化せしむる作用を有す。故に第一第二の鏡は平面なるが為に気光素のみの働きして第三より空源力が是に加勢して立体の作用(はたらき)を開始すると知るべし。
 音楽によりて人の心を左右し得るも気光素の働きにして是が立体音楽とならば此力の偉大なるは云ふ迄もなし。然るに現今の音楽は平面ともつかず、唯音を配合して耳新しきのみ。是は音楽にあらずして小児の組木を玩具するに他ならず。故に何れの曲を聞きても乱争淋苦に終りて世を益するものにあらず。我、今音楽の事を例にひきたれど慈音が音楽家たりしによるにあらず。因より宇宙は音の集合なればなり。宇宙は暫しも休止(やすむ)ことなくして動ず。動ずれば即ち音響を伴ふ。故に宇宙に最も大切なるは音響なり。

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