覚者慈音838   光明論上巻 巻の三  116番  教主寛大講義 頭腹一体の理

今日から左義長祭りが始まる例年になく暖かい祭りになりそうだ。 どうぞ近隣のかたは一度いらしてみてください。



覚者慈音838
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.22
                        116番


 汝等は知るならん。呼吸器結核にかかり居る者のうちにはよく理解して他に感染せざるよう注意し居るは最初の間にして、二期を過ぐればひがみを生じ三期に至らば却て他人がが遠さかるを怒るようになるものなり。斯る例を見るに徴しても生死は容易に明らめ得るものにあらず。棄執着の法を正しく理解したるものならでは真のさとり得ること難し。すべての執着を離脱して始めて生死をはなるることを得べし。故に棄執着は生死を明らむる手引きとも云ひ得らるなり。
 我第三鏡の威徳を説くに何故斯る論議に入りしや。汝等は枝葉にわたり居ると思ふならんもそは誤解なり。決して枝葉にはあらざるなり。汝等が今迄見聞したる第一第二及び第三の鏡に映りたると、汝等が有する鏡と対照して毫も相違し居らざれば汝等の鏡は正しきなり。されど汝等の鏡がくもり居りて三鏡は不明瞭ならば是をよく磨かざるべからず。是を磨く薬剤は即ち棄執着ならざるべからず。生死に囚はるるも執着なれば決して枝葉にわたり居るにはあらずと知るべし。
 第三の鏡は因果鏡とも云ふべき大切なる鏡なれば殊更明瞭に磨かずば真を見る事難くして、ややもすれば気光素は錯誤を生ずることあり。又他よりの報知も誤り聞く等の弊害を生ずるにより注意せざるべからず。人間にとりて執着なくんば念は劣へ執着度を超ゆれば大なる災禍となる。念を強くすると執着を強くするを混同せしむる時は、執念と変じて残存し容易に消滅せざるなり。何事もこりかたまれば念となる。執着心を深くして凝して念となさば取返へしのつかぬ危険を醸す。信仰をこらして念力を強くなすは宜しく、唯念ぜずして信仰に執着するは宜しからず。ものに凝り固まる力は其物に囚はるる故に執着となり、この執着に縛ばられて却て進歩を妨ぐる。執着を離れて熱心すれば執着の縄は解かれあるに依依手自由なるが故に意の儘に活躍することを得。念を凝すと執着の相違は、ここに斯る隔あることを考ふべし。熱心と執着はいささかの差あるのみにて少しくあやまれば離れ難き執着を伴ふ故に、執着を離れて熱心とならざれば念を喚び起すことを得ざるなり。熱心は念より生じ、念は熱心によりて次第に増大することに思ひを致すべし。念は広く執着はせまし。念は自由を与へられ居れど執着は不自由なり。念はきりの如く物を貫けども執着は糊の如く膠着あるのみ。此理に基きて修養せば可なり。念の力を養ひて融和せしものは分離も容易なれども、執着よりの融和は分離するは容易ならず。故に棄執着は大事なり。棄執着をなして念力を養はざるべからず。斯くして第三の鏡は光彩を放つなり。ここに問題となる事は棄執着を行ふに依て念の力は失はれざるやと云へる事なり。
 人は何事か心に一つの趣味を貯へずば日々の業は淋しきものなり。例へば労働する人は晩酌を娯みとして労苦に励むと云ふ如く、何か趣味とか或は希望とかをはなすことを得ざるなり。無希望無趣味の人は其日暮しの結果に過すと思ふならんも事実は然らず。是を仔細に検すれば矢張り何かの思ひを貯へあるものなり。是等は念を起す根原にして其が又執着の基礎ともなるなり。真面目に働き居りし青年が、一夜遊里に足を踏み入れしがもとにて放蕩者となるも此理による。即ち真面目なる間の心の動きは念に合ひ、放蕩者となりての後は執着となりしなり。されば何かの動機にて此青年が悔悟して迷ひの夢醒めたればその執着は却て念の心を養ひて、是が却て力を増さしむる働きに変ずるを得るなり。汝等此理を玩味せよ。執着心も心の底より捨てんとせば青年の悔悟の如く、清浄せられて其が却て念力を増す肥料とならん。斯くて第三の明鏡は磨かるるなり。我、此講の大略を述べ終りたれば、是にて講義を終りて次の第四の鏡を許す迄、汝等はセイキョウ、テッシンについて不分明の箇所を質問して教へを受けよ。
                昭和二十年八月二十六日~九月二十五日    

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