覚者慈音837   光明論上巻 巻の三  115番  頭腹一体の理  教主寛大講義

覚者慈音837
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.22
                        115番


 明鏡の光明に浴せる力を受けたるものは、受けざる者との相違は気光素の働きの有無に依る。この気光素は人々の受け居れる天分に応じて備はれる故に軽重はまぬがれず。人格の高低に従ふなり。人格向上すれば気光素も是に従ひて向上するなり。されば卑き位置に置れたる天分に置れたるたる人、修行せざれば気光素はその位置にて止り居れど、修行して徳をつめば此徳に従ひて気光素は発達するは疑ひなし。故に人は天分に順ずるは当然なれども修養にて向上して天分の使命を全うせざれば天理にそむくなり。
 第三の鏡に照らされて己の心の醜さを知りながら、是を是正せんと思はざるものあらんや。醜き心を映されりとて力を落して修行を止めんなどと不料簡を起す勿れ。鏡は偽はらず欺かざるを以て、汝等は改めんとの心を発せば其だけ汝の心の汚れは除去されてあるなり。然れば気光素は全々修行せざるものには働きをなさざるかと云ふに然にはあらず、生ある者には其者の程度は働き居るなり。例へば汝等他人より嘲りを受けて激怒なす時、気光素は働きをなし居る故に、平素と異なる状態を呈するに依っても知らるるならん。悲しきにも楽しきにも喜びにもその態度の異なるは皆気光素の働きと知るべし。ここに汝等は誤解し居る事あり。そは平素気光素は無きが如く感じ居るはあやまりにて汝等眠り居る間も気光素は活動なし居るものにて夢を見るも気光素の働きあるによりてなり。又食事の間も休むことなし。唯事にあたって是に応じ、是に相当の任務をなし居る事と知るべし。空源力より受けたる気光素は空源力に応じて働く故に、物の大小軽重時間空間を問はず自由自在活躍すとは汝等も既に知る処なるに、汝等は是を応用する工夫を考へず。斯る大切なるものを空しく無意味に遊ばせ居るは如何に智慧のうすき者なるか。今少し工夫して他より教へられずとも智慧を働せて気光素を有意義に使用せよ。又智慧の光明とは即ち空源力なりとの教へを何故に起さざるか。テツシンが汝等に見せたる無尽の果実は智慧の果実なりと何故に覚らざる。今少し真剣に修行に努力せよ。うはの空の修行十年は真剣の修行一年にも及ばざる事遥かに遠し。心せよ。
 空源力の智慧は汲めども尽きぬ泉の如く、ちぎれど絶えぬ無尽果の如し。其味の美なること他に比類なく、この徳の高きこと世界に充満るなり。蒔くなくに生ずる種子は、智慧と云ふ一個が神より下され、是が芽生え宇宙に拡がり悪き黴菌、即ち世を害するものを遠ざける薬品ともなると云ふことを、テツシンより教へられて悟るを得ざるは未だ真の心の底よりの信仰にあらずして、浮べる雲の如く飄々白々うはの空なる信仰にすぎざるなり。見るもの聞くものすべてを己の教訓なりと思ひて見聞せば必ずや得る処あり。又悟る処あるなり。さとれば法はとけたるなり。生死は法に依て出現しあるなれば、法なる糊にてはりつけられし紙の如し。此糊をとれば生死は離るるなり。即ち、故に生死の中に活をとく差をとる智慧あらば、生死は理解されて生も無く又死も無きに至るは論を要せず。斯くては未来を頼むの必要もなく過去の罪を憂うるの心配も無し。洒々楽々の日を永久に受くることを得ん。いささかむづかしきに過ぎたれば汝等にはさとり難からん。されど憶えをきて何日か来る智慧の光明に充たさるれば、飄然此理は体得せられて修行の助けとなるべし。然る時、生死の悩みは忽然として消滅せん。然る時こそ人間最大の幸福は得らる。何となれば人の最も恐るるは生死なればなり。汝等口にこそ生死は問題になし居らぬなど豪語し居れども真のさとりを得て云ひ居る言葉にあらざることは我よく知る処なり。

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