覚者慈音835 光明論上巻 巻の三  113番  頭腹一体の理論 教主講義 頭腹一体の理

覚者慈音835
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.21

                        113番


  水は方円の器に順じて居を安くす。心意魂魄も霊に従はば安きを得ん。汝等見聞したる如く一、二、三の鏡は位置に於ても形状に於ても亦、組織に於ても悉く相違しあるに不拘、映ずる様の等しきは是等は融和して相互連絡を計り居るによりてなり。汝等の自他の肉体は個々別々にして顔姿形異なるとも連絡の融和を完全にせば、相互一体となるに依て、同一の姿を映ぜしめて偽らざる信義の交はりをなすに至らん。斯くならば山間僻地にありても都会と交通自在となりて毫も不便を感ずるなし。汝等のうち誰か一人此鏡に向かひて念の様を映じ見るべし。汝等よく見るべし。今写れる念は千々に乱れて飛散し因果に於て何物をも残り居らざるならん。是即ち彼は雑念したりしによって他に何物をも望まざりしりしと云へること明白ならん。此事より知るも雑念の無用にして空なる又虚なる事を理解したるならん。汝等の信仰をして雑念の空虚の信仰に終らしむること勿れ。斯る信仰は実を結ばざるによって消滅し、何の利益ともならずして終るなり。雑念空想は有限性にして表面の水泡に等しければ、変化は様々なれど消滅す。信念をこらして内面に至らしむる信仰にあらざれば結果は得られざるは当然なり。口先の世辞言葉はその場限りにて心の底より湧き出でたる愛の言葉は魂に通ずと云へるも即ち此理なり。総て一切を神任せになしたる以上嘘偽はりを云ふならば、其は神任せにあらずして己任せなり。我、先に汝等に語りし棄執着に関し、執着煩悩を棄つるは容易の業にあらずと云ひたり。今汝等融和する方法を熟考して工夫し、然して其が行ひ得るならば棄執着は安々行ひ得る道は開らかるるに至らん。


 融和すると云ふ事は簡単に思へど、さて事実に移さんとせば、この裏面に種々の障碍ありて是を除去せんとすれど、何故か理外の理とも云ふべきものの潜在しあるに心づくべし。又是と反対に一旦融和したるものを他より離さんと努力なすとも益々固着して離れざるあり。斯る二様の理由は諒解するを得ても実行は難し。所謂因縁として諦むる外なしとなすや。然りとせば修養とは机上の空論に終らん。我、汝等を指導するに机上の学問、机上の空論に終らんことを教へて何の益あらんや。因縁と諦めて放棄するならば、融和論は空しきに終り益なき事となるなり。合せ物は離れものと云ふ俗語は実に当を得たる名言にして、合はされて働きを発し離されて止る。平面自然界は相対なるによって万事この理を基として考究せば解決の方法は得らるるなり。一枚の紙の上に更に一枚の紙を重ねたりとて、是は唯紙と紙との集りにして融和したるにあらず。是に糊と云ふ一種の方法を用いて密着せしれば、先づ融和したる如き形と見なすことを得。されど立体より観察すれば真の融和とは云ひがたし。されども先づ表面は融和なしたるにより一枚の厚紙として使用の任務を果すことを得るなり。然るに此紙と紙の融和に対し糊の方法を用いず、唯水にて融和せしめたりとせんか、是は法に合はざるべし。水の法にては忽ち離れて唯皺と云ふ痕跡の不平を残す。糊の法を用ゆればはなすには困難なり。強いて離さんとせば何れか傷き破るるならん。されど合はせ物ははなれものの例に洩れず、方法を以てすればはなすことを得ん。然しながら糊と云ふ痕跡の執念が相方の紙より容易にはなるることなからん。はなす方法によりても紙を水にひたしたれば糊の痕跡を止むれども薬品を用いて糊の癒着の力を失はしめて開放せしむれば糊の痕跡は除去さるるなるべし。即ち法を以てなしたる事は法をとけば開放すると云ふ理も判明会得したるならん。然れども是は形あるものに於てのことにして、形無き精神上に関しての理論には如何に適用すべきかとの疑念を起すは汝等の心理なり。

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