覚者慈音833  光明論上巻 巻の三  111番 頭腹一体の理論 教主寛大講義



覚者慈音833
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.18
                   111番



 汝等は無電映写機にすら感心なし居りしに今是を見ては己の心に貯へて他に知らせざることも現はるかと思へば恐々たるあらん。汝等の身にも其設備あることを悟り知るならば如何なる苦難にも堪へて我身の過去より未来に至る有様を知りたしとは思はざるか。然し知りて未来は恐しき結果となり居るならば怖しければ知らざるはよしと感ずるや。案ずる勿れ。此力を受くる程の汝等の修行が徹するならば、何とて未来の悪しかるべき。是は我証明を与へをくべし。
 肉体の心意は有限なるが故に滅却すれども魂魄は霊に属して無限なるが故に永久不滅なり。汝等の修行と修養は大旨心意にのみ与へ行ひあるによって、肉体の要求を退くる能はずして苦むなり。今一層魂魄に迄深く掘り下げてその業其行ひを徹せしむれば如何に肉体の要求ありとも、魂魄は心意を抑圧し、心意は余儀なく肉体を制するを以て発達は速なるなり。心意は肉体に傾き魂魄は霊に帰すれば、肉体と霊とは分離さるる姿を呈す。是魂魄は心意と融和せざるに依りてなり。魂魄融和して初めて労力の現はるるは当然ならん。心意にのみ労苦を与ふるも完全に吸収することを得ざるも亦当然ならん。我、よく汝等が人と語るを聞けば、我らは年の故なるか近頃何を聞き、何を学びても直ちに忘ると云ひながら、他より誹らられたりと聞きては容易に忘れざるのみか、その日時迄記憶し居れるを知る。是心意に聞くと魂魄に聞くとの相違によりて斯くもへだたるなり。記憶せんとの決心を深くせば年齢の老若は何等の影響ある事なし。
 今汝等の世界より第二世界に来り居れる者に、七十才にして修行を初め三年にして高徳者として挙げられし(リーフ)あり。是等に徴しても年齢の有無を語るの要あらんや。彼等はなさんと思ふ精神は無き故なるべし。魂魄心意の相違は彼等が談話に見る如く、聞く程に忘るるは心意の耳にて、誹りを聞きて忘れざるは魂魄の耳とせば、汝等は平素の修養を魂魄に迄及ぼして行なば忘るる事あるべからず。信仰浅きは心意の信仰、信仰深きは魂魄なりとの結論を得るに至る。 汝等は後と云はず今より心意魂魄を入れ換えて(リーフ)の如き大悟を得よ。懸命にて一生を得る底の修行を心意に任せては成就せざるは平面内面の相違なれば、内面の魂魄を引き出して是に重任を命ずべし。食物を口にしながらむづかしき書を読むとも腹に入るものにあらず。威儀を正して心の底より熟読玩味せざれば、其正しきを得る能はざるは汝等も入学試験前にて経験したる処ならん。修養修行は常に入学試験前との思ひを貯へて行ふべし。
   


是をお読みくださっている方の中で文中に出てくるリーフという方をご存知の方がいられたなら僕に教授してください。

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