覚者慈音830  光明論上巻 巻の三  108番  教主寛大講義 頭腹一体の理

覚者慈音830
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.12
                      第108番



 天の使命は皆凡てのものに架せられある事は屡々述べたり。然して是を早く知りてその職に順じたる者は成功し是に逆行せる者は不成功に終るは是当然なる事なり。物事順調に進むは天地の理に合へど、然らざるは天理に合はざるにより易学者又は祈祷師など星祭祀して他の運命を変へんなどと称して、不運者或は無智の人の弱みに乗じて私腹を肥し居る不届者などを見るは遺憾なり。祈祷などによりて運命変換を計り得るならば修行などの要なし。天より定められし運命は盤石にして決して是が変更を要求すとも絶対に許さるるものにあらず。是立体自然の法則なればなり。平面自然の法則ならば相対なるによりて或は変更さるる事もあるなり。梅は梅として其運命を変じて桃となる事は許されざるも結実を桃の如く大ならしむる事を得。是立体自然と平面自然の相違なり。人間の運命についても平面性運命は変ずるを得れども立体的の運命は変ずることを得ざるなり。貧者を富者たらしむるを得れども老者を若者となす事は難し。肉体の形を若くするを得るも百才は百才なり。三才の童子の肉体を老人になし得れども童子は童子にて、根底より変ぜしむるを得ざるも平面立体の相違なりと知るべし。故に第三第四の鏡の光明に浴したるものならば空源力の力を知り、且つ是を運用して自己の運命(平面自然)を開拓することを得るなり。
 多くの客を取り扱ふ旅館の主人召使などは永年の体験によりて客の人格を鑑別してあやまたずと云ふあり。又盗人は此家に金銀の有無を知り掏摸は人の持ち合はせの金高をも亦人格をも知ると云ふ。まして第三第四の光明に浴したる者に於てをや。
 されば汝等是に依て人間の運命が平面自然は或程度開拓なすを得れども、立体自然に合へる運命は如何とも変ずる能はずとの意味も理解したるならん。然れども努力に努力を重ねても財宝を得る能はざる人は生涯貧にて終る運命として明らむべきかと云ふ疑問もあらん。是にも平、立の二種ありて金銀を与へて目的を果し得ると、与ふることによりて使命の妨げあるの区別により、前者は財を受けしむるを得れども後者は得ることを得ざるなり。財宝あるに依て身をあやまり或は害を受くること少なからず。故に是等を知りて天命を全うせしめんが為に与へざるなり。
 空源力神通力を知りたる者の魂魄を鏡に写せば、此人は富豪の具はりあること、或は貧苦に終る人等々は明白に知ることを得るにより、幸運不運は明瞭に鑑別なし得るなり。先に述べたる幸運の人も金銭を拾ふ事より巨万の貯蓄なすに至る迄その有様を知る事を得る力を有するなり。されど是は科学者等の学理未だその水準に迄達し居らざるによりて説明する能はざるも、空源力の原理を知るものには敢て不審の余地なきなり。己の智慧の足らざるを棚にあげてすべてを運命の悪戯などと運命に帰せしむるは当を得たる事にあらず。よく智慧を働かせて観察すれば決して運命に属せざる事を発見するに至らん。

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