覚者慈音829  光明論上巻 巻の三  107番 此の書の眼目一大事 頭腹一体の理  教主寛大講義

覚者慈音829
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.12
                      第107番



 表面の信仰と内面の信仰によって大なる悟道の上の相違あることは既に汝等に於ても知りたるならん。然るに今汝等の態度を見るに表面ともつかず、又内面底面ともつかぬ中間性をさまよひあるを見るも、今是を深く底面迄至らしめて空を見よ。中間より仰げば表面に浮き上がりてもとの位置にかへる。故に一先づ底面迄進みておちつきて後空を仰ぎ見んと計るべし。然らずば水中にもがぎ苦むのみにて却って溺るるの他なかるべし。浮きつ沈みつは危険なり。底迄おちつきて徐に工夫すれば溺るる事なく助かる方法はさとり得るなり。信仰も同様なり。宗教の如き因縁とか、自然のとかに止め、不明の事はすべて神の業に帰せしめて、己の責任をまぬがれんと計る如きは、神に対して不敬ならずや。神の分野にあらずして己が命ぜられし天分を果さず、神の責任になすりつくるは一層罪悪重かるべし。
 汝等が思へる善悪正邪の区別も神通力を有する神の律法とは相違の点多々あるにより、善者の災悪にも亦相違ある事は既に説きたり。真正しき善者ならば神通力の徳を悟り居るに依て、決して不慮の災難に遭遇する事なく、よしんば遭遇すともまぬがるる事を得るなり。仏教の普門品を参照し見よ。まこと正しき善悪は神の律法に従はば可なり。人間には勝手気儘の矛盾の定め多ければ都合あしければ相談談合の後変更するを得れども、神の律法は不変にしてあやまちなければなり。神の規則に従へば神通力の徳を知らしめんとて神任せ、腹任せの法を教へたり。然るに汝等は予期に反して法は余りに簡単なるに依て、何か物足らぬ感じよりいささか不平の色を見するは何事なるか。我は汝等の智慧の程度をよく知れり。汝等進まば我も進まん。覚醒よ !



 我、不慮の災害の処にて運命と云へる語を残しをけり。然らば運命は如何になるとも開拓をなすこと能はざるか。有限性なる人間は無限の境涯に入ることを許されざるかと云へる問題を残しをけり。是については学者間にも様々の論議ありて甲論乙駁にて未だ真の結論を見ざるを遺憾とす。されば我、是等についていささか教へをなして、汝等の信仰を深からしめんとす。汝等の中には身の不運をかこちて愚痴をこぼして悲しみ嘆くの余り、易者の許にたより運命判断をなさしめ、或は家相を占はせ、或は死霊生霊の業ならんとて巫女祈祷師の腹を充たすなどの果は、迷信に陥りて祖先の遺物迄失ふ者少なからずあるを見聞したるならん。我、是等の多くを見るに其多くは天分を知らず、又己の智識を知らずして事業にたづさわりある者少なからず。然して彼等は一度失敗せば再び三度成功なす迄の努力なく徒に嘆き悲しむのみにて自失茫然たるに終るなり。斯る事にて大業なるなく成功もなく運命開拓はもとより得らるべき理なし。棚からぼたもちを夢見るは空想者なり。人事を尽さずば天命は下らざるべし。汝等の運不運と云ふは福を得ると得ざるを標準として金銭財宝を多く貯へたるか、或は貧乏者に不意に親戚より遺産が譲られしとか、道に落ちたる金を拾ひしなど云へば幸運と云ふならん。斯る事より先に論議を進めて更に真の運命と云ふに及ばずば、汝等には会得する事難かるべし。
 ここに一人の幸運者ありて道に多くの金を拾ひて届けをきしに、規定の時を経て落とし主知れずとて彼が手に下されたり。彼是を資本として相場に手を出して大福者となりたりと聞かば、是に対して如何なる論議ありともその是非はさてをき汝等は無条件に幸運の人と思ふならん。斯る者は万人に一人もあることなければなり。多くの金銀財宝を積むを真の幸運と云ふならば此人程の幸運はなかるべし。現今の学理によりて是等の理由を説明なし得るか。唯偶然に斯くなりしと云ふのほか、他に説明の余地なからん。是については我の語る運命論より推知せばうなづく処あるべし。故に是に関する説明は少時止めて後に併せて説くこととせん。

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