覚者慈音827  光明論上巻 巻の三 105番 頭腹一体の理 教主寛大講義

覚者慈音827
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.11
                      第105番


  斯る行動をなさずとも真の明らめによりてさとれば清浄となるは疑ひ無きことなり。唯葉をちぎり茎を折るのみにては効なし。要は根より枯らすべし。薬品を使用せば可なり。其薬品とは如何なる方剤なるか。即ち己が天分を知り己の力量を知りて是に甘んじて座する養ひをなすは、其根に対する適薬となるなり。斯く語るも汝等にはさとり難からん。換言すれば心は神任せ肉体は腹任せになし居らば何日しか雑草の根は枯れて再び芽を出さざるのみならず、その雑草は却って肥料となり、神凡一体の居に安きを得ん。神凡一体とならば心機一転して小胆者は大胆となり、慌て者はをちつき、無分別者は分別者となる故によく其効験の顕著なるには自分も驚くなり。是が追々熟達なすにつれ他人も決して他人と思はず、動植物に至るまで情けをかけ、食物に対しても心の底より感謝するに至る。是ぞ一切衆生悉皆一体となれる姿にして理屈のみに囚はれて行ぜざる者より、事実を知る者のみ味ひ得る現象なり。汝等にありても無益の理屈をたくましくして貴重の時間を空費せんより、先づ実行して其妙味を味はば欣喜雀躍するに至らん。さりながら煩悩の根を取り去る間の努力は容易の事にあらず。行半ならずして中止る人の多きを見るに徴しても頷かるるならん。取らんとせば反射力が強く働きて取らせじとかばひて、ここに争討のたゆることなく果は反射力に勝利を得さすの止むなきに至ること多し。然れども我の教へに従ひ一切の運命を神まかせとして、我意を起さず、我儘をなさず与へられたるを受けて他を求めずば飢ゆることなく凍傷なく、日々を快く働きて不平不満など微塵も起り来らざるなり。此神任せを心の底より任すは又容易ならざるなり。故に肉体修行の腹任せを完全ならしめざるべからず。是が達成を見たる暁には神任せは修行せずして行はれある事を自覚するなり。
 総じて物事は中心に帰せしむれば成功なすの理を考へて工夫すべし。掃き掃除するにも先づ隅より中心へ掃けば清浄さるれど、中心より隅に掃けば完全に排除する能はざると同様なり。手足にも中心あり。顔にも中心あり。其うち掌療法と云へる方法にも中心を程よく利用せざれば完全に大気を放射なすこと難きを見ても明白にさとる処あらん。汝等に注意しをくことは、我の教へし中心とは、根底即ち根原の意なりと解すべし。せまき範囲に解釈なすこと勿れ。根原は中心なるが故に居を強くす。宇宙の根原は即ち太陽なればなり。人間の腹に於ても根に合ふ理由あるなり。
 

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