覚者慈音826  光明論上巻 巻の三  104番  教主寛大講義 頭腹一体の理

覚者慈音826
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.10
                      第104番


 汝等はあさましき事なりとはがみしつつ如何ともなし難き我も知る。自分を凡夫の悲しさと云ひて言訳ともつかず諦めともつかぬ事にて捨て居るは不憫なり。汝等は凡夫なるによって解脱の道を究めんとなすならん。聖人君子ならば道を求むる要なかるべし。神凡一体の境涯を会得せよ。肉体に束縛せられてもがくとも決して一如の妙味を味ふ事は難しと知らば、何故に肉体に囚はるるかを先に調査せば是を改むる法は考案せらるるならん。空腹ならば食するも法なり。寒ければ暖をとるも法なるべし。されど食せんに金銭なく米なければ唯飢ゆるを何とすべきか。乞食になり下りても食の恵みを受けざれば餓死する他なからんと、汝等は思ひ煩ひて肉体に囚はれ居るは汝らの心境なるべし。此他種々あれども根原は衣食住の要求による結果なり。
 汝等よく聞け‼ 行者は深山幽谷に在りて米を作り居るにあらず。麦を作り居るにもあらず。たまたまそばを栽培し芋を作り居るもきはめて稀なり。彼等の多くは天然食摂取て飢えざるのみならず血気旺盛なり。即ち天は動物を地に棲息せしめて飢えざらしめんが為に様々の食を与へあるに、人間は習慣性の食のみに囚はれて他は省みざるによりて餓死するなり。行者の飢えざるに徴しても知らるるならん。衣と住に於ても同様の関係ある事は推して知るべし。肉体に囚はれある原因の根を求めて、是をぬき去り、然して葉は枯らせて後是を肥料とせば心のみのりは立派に結ばるることを我、是を保証すべし。汝等疑ふことなかれ。汝等の叫びを聞けば我かばかりの修行をなすに未だ一つとして得る処なし。如何にせばいささかにてもさとりの道は開かるるならんと気を苛せ肩をこらせ癇癪を起しつつあるなり。汝等肉体本位の雑草をぬき取らずして修養の種子を撒きて盛んに肥料を与ふるにより、雑草は却って繁殖して修行の芽生の障碍となり居れる故に、心の苛だつもその雑草の影響なることを早く覚りてそのはびこれる雑草の根をぬきさるべし。汝等は其を知らずして肉体本位は既に脱却なし居ると感じ居るは大なる誤解にて肉体本位の雑草は形を変へて繁茂成長し、今や花を開かんとなし居れり。されば実を結ばぬ間に根を断つべし。結実せしめなばこぼれ種子より又新しき芽生出づる憂あり。汝等は肉体本位を脱し居ると思ふも無理ならねど修行し居る様を見るに、肉体の要求あるごとに抑圧して退け居るは是即ち、茎より生ずる葉をちぎりて棄つるに他ならず。暫時せば却って以前に勝る葉の生ずるならん。少し修行の積みたる者と雖も茎をさりて根を残しあるに依って又芽を出すなり。されば根より抜き取る工夫を考慮せよ。



 行者は断食をなしたり又は裸体の寒参りをなしつつ六根清浄懺悔をなして根をぬかんと計れど、十中の一ばかりの人に過ぎざる達成ぶりを見るのみ。他は不成就に終るなり。成就の行者の信仰は内面より不成就は表面の結果なる事は云ふ迄もなし、汝等絶食せずとも裸体参詣せずとも心の底より信仰して学び行はば根は枯れて遂に必要なきに至らん。断食裸体参詣なすとも真の明らめをさとらずば六根清浄は得られじ。

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