覚者慈音825  光明論上巻 巻の三  103番 此の書の眼目 教主講義 頭腹一体の理

覚者慈音825
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.10
                      第103番


 一法を修すれば万法に通ずと我先に汝等に教へたり。法の原理は一なり。汝等すべてに和せんとならば先づ我身の和を計るべし。我身を忘るる人に、他に和する事をすすむるともならざるなり。されば我身の調和を先に計る修養によって行ずるを要す。手足は日常断間なく使用して働せ居て是にすら感謝の心を一度も起さぬは我物なるによりてなりと汝等は思ふならん。我は是に然りと答へん。理論は此処にあることを知らしめんが為に種々様々の言詞を費やせしなり。病みて大切なる処を覚り治癒して忘る。是には何か原因なかるべからず。先づ此原因を探求せざるべからず。汝等幼き頃親に叱られて鞭打たれし事なかりしか。鞭打たれて激怒を感じ復讐せんと計りし事ありしか。復讐などとは思ひも掛けし事なしと答ふるならん。是が他人なりせば必ずや復讐を計るならん。復讐とは一種の反射作用にしてたたけば響くと同様なり。此響きが濃厚なると薄弱なるとの相違に等し。親の鞭は強くとも響きは薄弱なれば余韻は少なく、他人の鞭は弱くとも余韻は長しと云へるに等し。汝らは云ふ、親に打たるるは是非なし。されど他人に打たるるは道に合はず。故に怒り心頭に燃えて憎悪の念生じ消滅せざるなりとの心より復讐を計り、ならずば尚怒りを報ず。親の鞭と他人の鞭に斯くも相違あるは是一体と分離関係の原因なるによる。親子のつながりは霊身によりて結ばれ他人とは離れ居る故なりとは汝らの知る如くなり。我、汝らに教へんとするは此理を応用せしめんと欲してなり。汝等心の底より考案して考へを深くし見よ。太陽は頭の星を抱きてはなれざることより思ひ廻らし見よ。星と星とにある汝等の肉体なるが故に個々別々となる。されどもし汝等は太陽の位地に置れたりとせば、其別々の星を抱かざるべからず。汝の両の手ははなればなれなり。又手も足もはなれて置れたり。若し足に痒みを感ずれば手は時を移さず行きてかく。物におそはるれば足は力の限りを尽して逃ぐ。平素は互に忘れがちなりしも一朝事あらば斯くの如し。是一如の現はれなり。
 太陽は宇宙の中心をなし、腹は肉体の中心をなす。汝等太陽となりてすべての星を抱けば一切衆生悉皆一如の境涯となれるなり。即ち太陽とならんとせばすべてを抱くべき腹を作らずば唯成程と合点したるに止りて空想に終るべし。教へを受けて心の底より信ずる力は即ち智慧なりと知るべし。汝等は食せんが為に働くか、或は働かんが為に食するかと口にしをる我はきく。されば心より肉体を支配するか、或は肉体より心を支配するかを弁へ居るならん。然るに汝等の日常生活を見るにすべて肉体より己を支配なし居れるを見る。即ち汝等は肉体本位なり。神よりあづかりたる肉体はもとより大切なれども、度超ゆればセイキョウ、テッシンの説きたる如く、米を作らず藁を作るに等しかるべし。此理を知りながら、汝等は藁に重点を置くは何故なるかの根底よりたしかめて、是を是正せざれば生涯肉体の為に心は召し使はるるならん。

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